【短編小説】はんぶんこ
2,564文字/目安5分
はんぶんこは得意だった。
彼の部屋に置いてある、わたしの荷物を整理する。これは持って帰るもの。これは捨てるもの。これはもったいないけど捨てるもの。
できるだけ自分のものを残さないように一つ一つ片づけて、彼一人だけの部屋にしていく。
終わりなんだな。
三年近く付き合っていたけど、別れる時はこんなにも事務的。それが当たり前であるかのように、終わりなんだと思った。
わたしには双子の弟がいる。全然似ていないから間違えられることはないけど、小さな頃からとにかく仲がよかった。
チョコが二つあったら一つづつ。
お菓子はちゃんとお皿に取り分ける。
ケーキも綺麗に半分にする。
けんかにならないように、どちらも満足できるように、一人分でもいつも二人で上手に食べた。そこに我慢なんてない。
だから、はんぶんこは得意だった。
図書館で偶然出会って、初対面なのに読んでいる本のことなんか話したりして、すぐに打ち解けたのが彼だった。
笑うと目尻がきゅっと下がる。落ち着いたようにゆっくりと話す。自分の考えを言う時は目に少し力が入る。その瞳はまっすぐできらきらしていた。
雨の中、一つの傘の下を分けあって歩いたこと。せまいけど、それで世界が広がったように感じたこと。今起こっていることのように思い出せる。
なんでもない冬のひとときだってそう――。
真っ白く覆われた公園を二人で歩いていた。
「雪って、寂しいな」
「どうして?」
「せっかく歩いた足跡が、すぐに消えていっちゃう。なかったことにされている気がして」
わたしはできるだけ深く足跡が残るように、力を込めて積もる雪を踏み進む。それを見て彼は笑う。
「そんなことしてると転ぶぞ」
「消えちゃうのは、なんだか嫌だから」
少しバランスを崩してよろけそうになるのを、彼は手を握って支えてくれる。大丈夫? うん。
そんなやり取りをして、そのまま手をつないで並んで歩く。
彼は「うーん」と考えるような仕草をして、ゆっくりと話し始める。
「消えるのとは違う気がするな。確かに積もって見えなくなるけどね。思い出と一緒じゃないかな」
「どういうこと?」
「過ぎた時間はどうやっても目で見ることができないでしょ。それと同じで、思い出も頭に浮かべるしか見る方法がない」
二人とも、視線を足下に向けている。
「要するに、見えなくなっても二人の思い出は消えないってこと」
口にしたら恥ずかしくなるようなことを、彼は平気な顔して言う。わたしは彼のことが好き。好きだったんだ。わたしが何か後ろ向きなことを言っても、たいてい視点を変えて返してくれる。それがとても心地よくて、つい甘えてしまっていた。
彼は優しかった。その優しさを、わたしはよくばってしまった。
彼はわたしのことを愛してくれていたと思う。わたしもわたしなりに、彼のことを愛していた。そう思っていた。
もっと二人で幸せに過ごしたいと思った。もっと二人でいろんなことを話して、いろんなことを見たりして、その時間を分けあいたかった。痛い時があっても、それを分かちあいたかった。
それなのに、二人でつくるはずの幸せを、彼に求めてしまった。一つもらったら次の一つが欲しくなって、満たされてもすぐに足りなくなって、そんなことを繰り返してしまった。
つくるのは彼、食べるのはわたし。いろんなことを求めるようになって、求めないのは我慢していることのように思えて、そのくせいつしか食べきれなくなった。
別れを切り出したのは、彼だった。
部屋はだいぶ片づいてきた。
もともとは彼が一人で住んでいた部屋。だからわたしの荷物はほとんどない。着替えを整理して、歯ブラシなんかは捨てちゃう。持って帰るものはリュック一つ分くらいにしかならない。
彼はわたしの服をたたむのを手伝ってくれている。その動作には丁寧さが感じられる。あまり器用ではないけれど、はじっことはじっこを綺麗にあわせようとしてくれているのがわかる。
男の人じゃないみたいな細い腕。前髪が少し目にかかる感じ。いけないな。今になっても愛しいと思ってしまう。
片づけ中、これといったおしゃべりはなく、服はどこに置いたらいいかとか、そういうことをひと言ふた言交わすくらい。
ふと、本棚に置いてある写真が目に入った。豪華じゃないけどフレームに入れて、二人で撮った写真を飾っている。海を背景に並んで撮った写真。記念日のお祝いで撮った写真。雪に飛び込んでできた跡を撮った写真なんかもある。
別れるなら、こういうものも捨てないといけないんだ。
こんなにも、わたしの中に残っているのに。
あの冬の日のこと。雪はやむどころかどんどん吹雪になっていった。服の中にまで雪が入ってとても寒かった。だけど楽しかった。
夕飯は絶対鍋がいいねなんて話しながら。今日はゆっくりお風呂に浸かろうなんて話しながら。すごく楽しかった。
それも終わりなんだな。
写真、捨てたくないな。
彼と過ごしたこれまでのいろいろなシーンが浮かんでくる。それでも、今は思い出よりも、目の前に見えているこの写真がたまらなく惜しい。
見たいだけだったらスマホにいっぱい保存してある。けどそういうことじゃない。
「写真、どうしよう?」
すがるように訊ねる。
わたしが持って帰るのではだめ。だからといって今、捨ててしまうのは、ちょっと、やっぱり、なんだかだめだ。
「写真?」
彼はわたしの目を見た。
わがままだってわかっている。よくばりだってわかっている。
自分でも気づいていた。写真をどうにかしたいんじゃなくて、この気持ちをどうにかしたいだけなんだ。それを彼に押しつけて、飲み干してもらうのを待っているだけだ。
一秒か、三秒か、十秒か。わたしにとってはどれも長すぎて測れない。彼は口元だけ少し笑って、
「写真はここに残しておこうか」
そうやって答えた。
本当に優しいんだ。あなたは。
でも、これが彼の最後の優しさだ。わたしは行かなければいけない。
彼は玄関まで見送りに来てくれた。
「じゃあね」
「うん、じゃあね」
リュック一つにまとまった荷物を背負って、彼の家を後にした。彼からもらった優しさは、胸の中にしまっておく。空はよく晴れている。
アスファルトだから足跡はつかない。
わたしは一歩一歩、踏みしめて歩いた。
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