『時間は存在しない』 まとめ
あるとき、2歳の娘に「『時間』ってなに?」ときかれた。私たちがあまりにも頻繁に「時間がない」だの「ごはんの時間だ」だの言うからだろう。日頃、娘を急かしていることを反省させられた。
それはそれとして「時間」である。
私たちは過去から未来へと続く直線的な時間の観念をもっているが、現代物理学の知見はこれとはかなり異なるものらしい。娘に「時間」について説明するためには、もう一度きちんと勉強し直す必要がある。
そうして調べていたときに出会ったのが、理論物理学者のカルロ・ロヴェッリが書いた「時間は存在しない」(NHK出版、2019年)だ。衝撃的なタイトルである。これが事実なら、娘に謝らなければいけない。
そんなわけで、この本を手に取った。著者のカルロ・ロヴェッリはイタリア生まれ。量子力学と一般相対性理論を統合する理論を模索しており、「ループ量子重力理論」を提唱している。この理論は宇宙論と結びついており、宇宙の始まりに何があったかに深くかかわっているそうだ。
本書は三部構成で、「第一部 時間の崩壊」では現代物理学が時間をどう捉えているか、それがわれわれの直感といかに反しているかが概説される。「第二部 時間のない世界」では第一部を受けて、「時間のない世界」をいかに記述すべきかが探求される。最後の「第三部 時間の源へ」では、それでもわれわれが「時間が流れる」と感じるのはなぜか、ということが考察されている。
第一部はおおむね理解できたし、第二部も半分くらいはわかった。だが第三部は、残念ながら最後の方しかわからなかった。いちおう理解できた範囲でまとめたので、よかったらご覧いただきたい。
第一部 時間の崩壊
時間の流れ
まず、アインシュタインの相対性理論によると、重力が強いところでは時間の流れが遅くなる。そして、速く移動するほど時間の流れが遅くなる。
これは、きわめて正確な時計を用いれば実際に測定できる。2020年4月に東大の香取教授らのチームが発表した論文によると、スカイツリーの展望台では地上と比べて1日につき10億分の4秒、時間が早く進んでいたそうだ。
このように、「時間」は観測地点や観測者によって変わる。
エントロピー
時間の流れを含む物理法則に、熱力学第二法則がある。「孤立系において不可逆変化が生じた場合、その系のエントロピーは増大する」というものだ。
実は、物理学ではこれ以外に時間の流れを示す法則はないらしい。電磁気学でも素粒子論でも、方程式に時間を表す"t"が出てくることはあるが、これを"-t"に置き換えても理論の整合性は保たれる。これを「時間反転対称性」という。
というわけでエントロピーだが、これは「可能な状態の総数(の対数)」を表す。この「状態数」というのは、マクロの視点でのみ定義できるもので、ミクロなレベルでは定義できない。
筆者は、これをトランプカードで例えている。トランプカードの山で上半分がすべて赤、下半分がすべて黒だとすると、「エントロピーが低い」と言える。これはマクロな視点で「色」に着目した結果、言えることだ。
ミクロな視点にたてば、全てのカードが固有のものだ。52枚のカード全てに違いがあり、#1から#52まで番号をふれる。そうなると、どんな並び方も固有のもので、特別な並びは一つもない。
原子や量子の視点にたてばこれと同じで、全ての状態が固有のものである。そのため、「状態の数」を定義できなくなる。
「現在」は存在しない
エントロピーを定義できないとはいっても「現在」は定義できるでしょ、という言説も、現代物理学は否定している。
離れている二つの地点では、互いの状態を観測するのに時間を要するため、厳密な意味でまったく同じ「今」というものは存在しない、というのだ。
例えば、二地点AとBのあいだを光が進むのに1秒かかる場合、Aが観測できるのは1秒前のB、Aの今をBが観測するのは1秒後になる。この2秒間は、過去でも未来でもない。
個々の観測系から観測される事象については時間的な前後関係は決定できる。これは親子関係のようなものだ。物理学では、現在という点から広がる円錐として過去と未来を考える。これを光円錐という。
だが、異なる観測系にとって共通の「過去」「未来」もあれば、一つの系にとっては「過去」と決定できるが、もう一つの系では前後関係を決定できないものもある。つまり、二つの光円錐が重ならない事象がある。
要するに、万人にとって共通の「現在」などというものは存在しない、という結論になる。
重力場
いや、そうは言っても、いわゆる「神の視点」から見た時間の流れを想定すれば、「今」を定義できるのではないか、と思いたくなる。この、「他のものから独立した時間軸」というのはニュートンの古典力学的な考え方だ。ついでに言えば、「他のものから独立した座標系」というのもそうだ。
現代物理学では、これも発展的に解消されている。ここで「場」の考え方が出てくる。時空とはすなわち重力場だ、ということになるらしい。質量をもつ物体があると、重力場が歪んで時間の流れがゆっくりになる。つまり、時間とは他のものとは独立では決してなく、空間に編み込まれていて、物体から影響を受ける。
そして、重力場は電磁場などの他の場から影響を受ける。ありとあらゆる意味で、時間は他のものから独立ではあり得ない、ということになる。
量子としての「時間」
最後に、これまた完全に私の理解を超えているが、時間もまた量子なのだそうだ。まず、時間には粒子としての性質があり、だいたい10^-44 秒が最小単位だそうだ。つまり、時間は離散的な値しかとらず、連続的ではない。そして、時間には波としての性質もあり、常に揺らいでいる。
こごまでくるともうお腹いっぱい。確かに、時間は存在しないと言ってよさそうだ。
第二部 時間のない世界
それでは、「根源的な時間のないこの世界」をいかに記述すべきだろうか。
「時間」はないけど、「変化」はある
結局、この世界は「物」ではなく「出来事」でできていると考えるとうまくいく。「変化」と言い換えてもいい。原子や電子、素粒子も量子としての性質がある以上、波としての揺らぎがある。「物」もつき詰めれば「出来事」になるわけだ。
時間がどれだけわれわれの直感に反していても、出来事は起きるし、理解しやすい。もしも「時間」が出来事の発生自体を意味するのなら、あらゆるものが「時間」であるとも言える。
世界を記述するのに「時間」は必要?
じゃあ時間は存在するじゃないか、という話になる。
「変化」は時間の関数によって表すものだ、という常識が私たちにはある。人類は、物事の変化をまず、「日数」や「月の満ち欠け」「太陽の高さ」に関係づけた。これらが暦や時計を生み、「一つの変数を選んで『時間』という特別な名前をつける」ことになった。
だが、それは不要だ、と著者は断言する。ある量の変化は、別の量の変化との関係がわかれば、それで表現できる。必ずしも時間の関数である必要はない。重要なのは「もの同士が、互いに対してどのように変化するのか」なのだと言う。
確かに、第一部で見てきた時間の性質をふまえると、変化を記述するときの変数は絶対に時間がいい!と言えるほど、時間は確かなものでもないように思える。
量子重力学
ここで、筆者の専門である量子重力学が紹介される。量子重力学は、ビッグバン以降、膨張を続ける宇宙全体の振る舞いをあつかう量子論を作ろうとしたそうだ。その結果、時間という変数を含まない基本方程式が導かれた。量子論的な宇宙は「時間が経つにつれて膨張する」という形ではなく、宇宙の大きさや物質の状態といった、時間以外の変数の間の相互関係として表されたのだそうだ。
いずれにせよ、基礎的な物理現象を記述するために、時間変数は必ずしも必要ではない。これはニュートン以来の考え方を覆す知見だ。
第三部 時間の源へ
量子変数の「非可換性」と「時間順序」
それでは、物理的な出来事の時間順序が決まるのはなぜか。これは量子変数の「非可換性」による、という考えが述べられる。例えば、電子の位置を測ってから速度を測る。逆に、電子の速度を測ってから位置を測る。そうすると、前者と後者で結果が違ってくるらしい。これが量子変数の「非可換性」なのだそうだ。
エントロピー再考
また、エントロピーについても再考される。量子力学的な視点に立つと否定されるエントロピーだが、実際にはわれわれの観測能力が限られている以上、われわれの世界の認識は「ぼやけ」を伴わざるを得ない。エントロピーはこれによって生じるというわけだ。そして、これが時間の存在の源となっている。
それでは、宇宙初期のエントロピーがなぜ低かったのか、という点についても、著者独自の考えが述べられる。それは、わたしたちが属している物理系は宇宙全体のごく一部に過ぎず、その一部がたまたまエントロピーが低い特殊な状態にあったのだ、というものだ。これは物理学の世界でも新しい考えで、あくまでも一つの仮説なのだそうだ。
時間という内的な感覚
過去は「現在のなかに痕跡を残す」。月面のクレーターも、古生物の化石がその例だ。では、過去をとどめる痕跡があっても未来の痕跡がないのはなぜか? それは「過去のエントロピーが低かった」ことに起因する。「過去と未来の差を生み出すもの」はほかに見当たらないという。
記憶もまた、過去が現在に残した痕跡だ。時間が経過するという内的な感覚は、過去だけが記憶をつくり、未来はつくらないという非対称性に由来する。過去のエントロピーが低かったことで、シナプス結合の生成と消滅という物質的なプロセスが生み出され、記憶が形成される。
感想
最終的には、記憶という私たちの内側からの視点で、時間は語られることになった。たしかに、時間を感じているのは私たちなのだから、これでよいのだ、という気もする。
「時間とは何か?」という問いは、哲学者の古来からのテーマで、現在も哲学的な探求はなされている。そこでは内省的なアプローチは欠かすことができない。一方、現代物理学の知見は哲学にも影響を与えている。哲学と物理学、両者の間には乗り越えるべき壁がまだまだあるとはいえ、「時間」に対するアプローチは近づいてきているそうだ。
本書を通じて、時間がいかに相対的なものか(これが「相対」性理論と言われる所以のひとつ)、少しだけ理解することができた。自分自身の物理の知識は量子力学止まりなので、本書の内容をきちんと理解するためには、相対性理論や場の量子論など、もっと学ばないといけないのだろう。
さて、娘には何と話したものだろうか。本書で学んだことを妻に話した。
「社会生活に必要な時間の観念を伝えればいいのよ」
…まったくもって、その通りだ。