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日本武術神妙記 剣道に防御はあるのか?

中里介山の「日本武術神妙記」にはこんな記述がある。

日本の剣法は我を護ることを先とせずして我を殺すことを先とする,西洋のフェンシングの如きは刀を片手に執り,身を引けるだけ引き,最も多く我が身を護りながら最も多く敵を傷つけようという防御的経済の理法に出ているが,日本の剣法は,刀を双手に取って全身全力精神をもって敵にぶっつかっていくのである,そうして死中に活を求むという超経済の方法に出でている,これは,仏教のうちの禅の宗旨とよく合致した手段である,だから日本の剣法には本来受けるという手はないのであって,討つか討たれるかという二つの端的よりほかはないのである,そこで剣法の勝負は必ず相打である ー ということが古流剣法の極意になっている (pp.8-9)

中里介山「日本武術神妙記」

僕は相手が動いて隙ができたところ,相手が打ち出すところを打つ稽古をしている。それだと遅いということだ。特に相手が打ち出してから打つ場合,技量が同じであれば,必ず先に打たれる。そういう稽古をしているのは,打たれる稽古をしているようなものだ。相手が動いて隙ができる,相手が打ち出す。これを待っているというのは,主体的か受動的かでいえば,受動的だ。相手が動いて,それにつられて自分が動いている。自分がない。

十分に準備をして,そこだと思ったら,自分から打つ。そんな稽古を明日はしてみよう。

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