その編集は必要だろうか?
今回は、noteを始めるきっかけである「ゆっくり研究」のような記事だ。
ちょっと待て。
ゆっくり実況者のらいむれいむさんが以下のようなツイートをした。
最近のゆっくり実況者はレベル上がってるなぁ……とは思っていましたが、またここ最近でさらにひとまわり全体のレベルが上がった気がしているのですが、気のせいじゃないですよね…??
— らいむれいむ🧹 ゆっくり (@LimeReimu) October 25, 2022
みんな待って……置いていかないで……
最近のゆっくり実況者はレベル上がってるなぁ……とは思っていましたが、またここ最近でさらにひとまわり全体のレベルが上がった気がしているのですが、気のせいじゃないですよね…??
みんな待って……置いていかないで……
らいむさんは立ち絵をぬるっぬるに動かすスタイルの動画を投稿している。それ自体は問題ないのだが、そのような表現があるのは問題ないのだが、そのような技術は界隈の滅亡につながるのではないか?
ゆっくり投稿者の私だが、あえて言おう。
ちょっと待て。
ゆっくり実況の発展
ゆっくり実況は、
黎明期の声だけの実況。
画面の端に饅頭立ち絵のついた実況(場合によっては口パクする)
字幕がつく。
立ち絵がなくなり字幕のみになる
字幕や立ち絵に個性が出る。
テンポが早くなる。
立ち絵が動く……
とこんな具合に発展してきた。創作者ならわかると思うが、誰かが新しくテンポも立ち絵も見やすい動画を作ったとしよう。そしてそれが伸びた。
するとそれを羨ましがり、自分なりに再現する人が出てくる。そしてそれが増殖し、やがてそれが界隈の一般となる。
そしてしばらくすると、そこからの脱却のためまた新しいスタイルの動画が現れる……
創作、文化の発展の手順としては非常に正当なものだ。この流れが悪いわけではない。
しかし、この発展によって増えるものがある。製作者の負担だ。
実のところ、トーク力があってもなくても、定義的に「ゆっくり実況」は成立する。あの音声が実況していればそれはもう「ゆっくり実況」なのだ(ゆっくりの成立的には、厳密に言えばあの饅頭を使わないとゆっくり実況とは言えないのだが、それは置いておく)。
SofTalk系の合成音声によって、ゲームのプレイ映像に音声を織り交ぜた動画。
イメージキャラクターにゆっくりを据え、トークを挟みながらプレイを進めていくという実況風の内容に仕上げているのが通例。
無論トーク力があればそれだけで面白く、実況を回すことができる。
しかしそのようなトーク力を持っている投稿者はかなり少ないだろう。私もその一人だ。
するとその投稿者は編集力でトーク力を補うようになる。立ち絵の顔芸や、字幕の大きさ、効果音などを工夫して飽きない、面白い動画作りを行う。
一回ゆっくり動画を作ればわかるが、この工程は非常に面倒くさい。セリフベタ打ちでトークだけで回していった方が幾分も楽だ。
だが、動画の面白さとその編集の大変さを天秤にかけたとき、編集の大変さの方が軽いなら、そのときはじめて大変な動画作りを行うのだ(凝りたいからという理由でトーク力があるにも関わらず大変な編集を行う人もいるが、その人は人外なので今回はそっとしておく)。
その編集は必要か?
ここからが問題である。結果的に大変な編集をすることになったうちはまだいいのだが、その大変な編集が当たり前となり、ゆっくり実況とはあちこちを凝った動画であることが前提となってしまうことがある。
これは既に発生しており、あまり伸びていない投稿者を見ると、とりあえず大袈裟な凝った編集をしていることが多々ある。
これはゆっくり実況はこのような編集をしないといけないという前提にすり替わっているから起きるものではないのだろうか?
先も述べた通り、ゆっくり実況はあの声(と立ち絵)を使って実況していればゆっくり実況として成立する。それは今も昔も変わらない。
だが、このようなゆっくり実況の前提の誤解が続いたとき――大変な編集がデフォルトとなりさらに大変な編集が加わり、またそれがデフォルトとなることを繰り返したとき――、そのときの投稿者への負担は言葉では言い表せられないものになっているだろう。
このような制作の高負担化は、新規の投稿者が失踪する原因にもなりうる。ましてや毎日投稿が必須とされる今(これとは別件で私は毎日投稿に反対である)、このような大量の編集を費やす編集時間と締切の関係は非常に相性が悪い。
それこそ一日中編集をしていないといけないくらいに。
かつてゲームの華の一つだったSTGは、高難易度化の一途をたどり、「怒首領蜂」などによる弾幕STGで多少延命されたものの、結果的にSTGの衰退を起こし、今や弱小ジャンルの一つに成り下がってしまった(少なくとも90年代当時ほどの熱はない)。
同じことが今ゆっくり実況にも起きている。
ジャンルの進化や発展は大切である。しかし発展しすぎというのも考えものである。
だからこそ今、本当のゆっくり実況を振り返なければならない。
その編集は本当に必要なのか。別のところで面白さは引き出せられないのか。
この編集の必要性に関しては、映像学区でお馴染み雪原てとらさんが問いを明らかにしている。
デザインって一括りにするけれど、実際は2種類あるんじゃないでしょうか?
1つは、「広義の企画デザイン」、もう1つは、「狭義のグラフィックデザイン」です。例えば、画角や機材の選び方とか、よいテロップとか、エフェクトとか、アニメーションとか、カラグレとか、YouTubeで観られる動画編集チュートリアルのほとんどは、多分「狭義のグラフィックデザイン」にあたるんですよ。
(中略)
「狭義のグラフィックデザイン」を鍛えることで、確かに、いわゆる編集のクオリティーを何段階も上げることができます。しかし、身につけるデザインはそれだけで良いでしょうか?
答えはNoであるはずです。
もう一つ、「広義の企画デザイン」を忘れてはならないと思うんですよ。グラフィックを作る前の段階、企画の段階から既にデザインは始まっているからです。
これを見てくれる人はこういうことを知りたい層で、だったらこれは必須で、逆にこれは省いた方がいい。
こんな感じで、「狭義のグラフィックデザイン」は、「広義の企画デザイン」の後で、あるいは並行して考えるべきです。
(中略)
例えば、イージングみたいなテクニックは狭義のデザインですが、その前に「そもそもなんで動くのか」という目的があるべきです。この目的を踏まえて初めて、広義のデザインの達成といえます。
逆に目的がグダグダだと、過剰なイージングを生むかもしれません。
動画を継続して作っている人は、「どこまで編集を凝るか」という問いに答える必要があります。実用的なレベルの編集を考えるのも、立派な「デザイン」です。
例えば、「テロップ入れるの面倒くさいけど、実際のところ、そのテロップ自体いらなかった」みたいな編集に陥っている人を大勢みかけます。
この動画は6分ほどと短いので、編集に費やす時間よりは短いはず。必ず目を通そう。
その編集は「ゆっくり実況」としてどこまで必要なのか。本当に必要なのか。一回立ち止まって考えてみよう。
P.S.
自分の強みがすごい編集ならそうすればいいし、自分のトーク力を強みにしたいならそうすればいい。ただそれだけの話だ。
私は弾道をボスのキャラクター性から生みます。キャラクター性は姿形は勿論、音楽、背景、設定から生まれます。そしてそれらは何から生まれるのかは考えて頂ければわかるでしょう。
そして、プレイヤーの誘導や遊ばせ方、弾道の見せ方は最後のドレッシングです。サラダはドレッシングの影響力が一番強いですが、私はドレッシングをサラダとは思いません。
そういう訳で、ユーザーはその末端を楽しみます。でも、創る人は末端だけを創るわけに行かないのです。
あの声を使った実況というサラダの上に、自分なりの解釈などを盛り込み、自分らしさを出していく。それが創作だ。
そう、完全に綺麗に線引きされた図形は、それは美しい幾何学的模様を生む。
ここに、間違った線を一本でも引こうものなら、その美しさは瞬時に崩壊する。人間は、この儚くて完璧な美しさに惹かれ、この美しさを解析し再創造、評価してきた。考えれば考えるほど美しい。
この職人芸は誰をも納得させる美しさがある。その美しさを究極まで高める事が職人の目的なのだ。
逆に至極単純な式に、幾つかの因子を与えただけの世界。ランダムに動いている点は、人間の経験的推測では、ただのぐちゃぐちゃと
した汚いノイズにしかならないと思ってしまうだろう。
だが実際には、この式を阻害する外的要因を外していけば、人間の予測とは
裏腹に美しい図形が見えてくる。これはカオスだ。
人間が用意した図形にはこの神々しい美しさは出せないし、美しさの解析も評価も出来ない。考えると美しさを失う。
ただただ、その美しさを生み出す因子を模索、創作し続けるだけである。
東方は初期パラメタに世界観をおいて見たゲームです。結果、カオスが表現する世界は弾幕ではなく、ディスプレイを超えて人の心で計算される様になった。これも極端な妄想ですが、このシステムでこの初期パラメタのまま計算を進めると、自動生成されるものは「ステージ、弾幕」ではなく、「表現」つまり、様々な形態の作品、また多様な二次創作、という風に進化していく、と思えるんですよね。かなり妄想ですが。
あくまでもゆっくり実況の前提は他人が作ったドレッシングの入った完成形ではなく、ドレッシングのかからない不完全なサラダである。ドレッシングを神主がサラダと思わないように、編集がゆっくり実況ではない。そこを履き違えないようにしたい。
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