2軒目ラジオおよびグリマリから見る実況動画の在り方

 博麗神主ZUN(以下本文では神主)は、ニコニコ動画黎明期の2009年に発売した書籍、「グリモワール・オブ・マリサ」(以下グリマリ)にてこのようなことを後書きで述べていた。

 では、これからの時代の本、特にゲーム関連の本の魅力とは何か。それは「自分で所有出来る事」ではないかと思うのです。そして所有したい本とは何か、一度読んでおしまいではなく、調べたい時に見ておしまいでもなく、「普段は本棚に入れておいて、偶に眺めたりして心の糧となる」という本じゃないでしょうか。
 そういう魅力を出す為にこの本は、攻略や設定資料といった疲れる有用っぽさを出来るだけ排除しました(しかもオールカラーで豪華!)。
 ゲームの為に勉強するのでもなく、何かの役に立つ為の資料でもなく、ただ弾幕好きとして持っていたい本。そんな本になっていたら良いなぁと思います。

 最近、ゲームのプレイを実況する動画が人気だそうです(著作権的にアウトな物が多いのがこれからの課題でしょうが……)。
 それにより数多くのゲームプレイヤーを観察する事が出来ます。さらに、プレイヤーの意見を開発中のゲームにフィードバックさせる事も可能でしょう。
 ただ、それはしてはいけない甘い罠です。
 ゲームセンターや、友達と遊んでいる時のように、ゲームのプレイヤーを観察して楽しむだけ、それが動画が人気な理由であるのです。
 有用な眼で他人のプレイを見て、プレイ動画がゲームに影響を与えてしまう事は最悪、動画文化の終焉を招く事になるかも知れない。
 何か有用な物は見出せないか、という見方だけでは本当に有用な物には気付けないのです。この本もそういった動画のように気楽に眺めて頂きたいと思います。
 魔理沙は有用な物を見出そうと必死ですが、それがどう転びますかね。

 私はこの文を読んだ時、何が「有用な物」で、それがやってはいけないのかわからなかった。しかし先日の2軒目から始まるラジオにおいて、それの答えが出た。


ZUN:
 一つだけね、発売する前にこのゲーム(バレットフィリア達の闇市場)
に対して言わなきゃいけないことがあるんだけど、このゲームには難易度選択がないの。でも難しいかどうかっていうと、難しいです。
 だけど、難しい人間がこうやって遊んだら(注・このあたりはうまく聞き取れなかったので別の言葉の可能性あり)こうだって評価するように作ってなくて、難しいのが苦手な人間が、頑張った時に面白くなるようにできてるので。

JYUNYA:
 でもあのシステムはそうだよ。

ZUN:
 でもこれをね、配信者が上手だからこういうふうに出しました(注・ここもノイズで聞き取りミスの可能性がある)っていうのを鵜呑みにしないでほしい。
 戻ってこの前のところに……泥臭く何度も集めて行ったらいずれクリアできるようになるから。

JYUNYA:
 だからあのシステムはRPGっぽい。最初は実力が劣っていても、やってて装備を集めて、カード集めてって自分の最適解が見れるっていう。

ZUN:
 虹龍洞ではそれはほとんどなかったけど、今回はそれが強い。なくてもクリアできるんだけど、その人たちが難しい……「こうだ!」って言ってるのを見ないでほしい。遊んでよ。
 一応用意してるから。そんなかでランダムで手に入るカード……ランダムでこれが手に入ったら先に進めるっていうのが実際あるから。


豚:

 それはいつも通りなんだけど、やっぱり他所は置いておいて自分で遊んでみたら……



ZUN:

 それが一番最高の……ゲーム



JYUNYA:

 虹龍洞やってた時も、自分の最強の装備品は何かって話してたもん。「お前それ使ってるの!?」って



豚:

 クリアするところまではとりあえず自分でやってみて……



ZUN:

 それをね、もっとわかりやすく作ってるからね。手に入るものも限定されてるし。わかりやすく作ってるので……これを手に入れたら楽。これを手に入れらなかったらクソゲーって呼ばれるやつでもう手に入んないから。
 そういうのがね、用意されてる。(注・この辺りも聞き取りミスあり)
 取れないんだったらこれでいいよ、っていうやつも手に入るとは限らない。楽しいよ。
 まあうまい人はそのままストレートにクリアできるかもしれない。

 弾幕STGが苦手な人が、うまい人の最適解を、鵜呑みにせずに「遊んでほしい」と言っている。
 つまりグリマリでの実況動画についての有用なものは、「どうやったらこのゲームをクリアできるか、強くなれるか」というものだ。

消える攻略の楽しみ

 おおよその人間というものは簡単なほうに飛び乗る癖がある。仕事も楽なものに就きたいし、ゲームも簡単に攻略をしたい。
 ゲームで弱いとすぐ負けてイライラが溜まる、だからすぐ強くなりたい。だから攻略を見るなり、ソシャゲならリセマラや課金をする。ガチャをする。

 例えば、ゲームの動画で誰かが「どの装備が強いよ」と言ってしまえば、大体の確率でみんながその装備を脳死で使うことになる。
 脳死で、というのは「何故その装備を選んだか」という問いに対して「XXXXXがこう言っていたから」になってしまうからだ。
 脳死でないものは、同じ問いに対して「この装備がこういう効果でこうなると思ったから」と答える。

 マリオカート8DXで言えば、ワルイージカートと揶揄されるくらいにワルイージ、ハナチャンバギー、スカイローラー、かみひこうきのカスタムが強く、多くの人が使っている(全員このカスタムであることもそこそこある)。
 その使う理由が「このカスタムが強くて、ワルイージは細くて見やすいから」なら良いが、「あの人が使っていた」ではゲーム本来の面白さが損なわれる。

 上の引用でJYUNYA氏が

虹龍洞やってた時も、自分の最強の装備品は何かって話してたもん。「お前それ使ってるの!?」って

 と発言していたが、実際これは自分で試行錯誤した結果であり、上の問いに脳死ではなく答えられるものだ。
 「ぼくのかんがえたさいきょうのそうび」とは何か、他人と意見をぶつけられる。

有用な眼

有用な眼で他人のプレイを見て、プレイ動画がゲームに影響を与えてしまう事は最悪、動画文化の終焉を招く事になるかも知れない。

 とあるが、これはどういうことか。
 ゲーム実況はその人のプレイや実況を「目的」として見る場合がほとんどだろう。しかし有用な眼で見てしまうと、その人のプレイが攻略、クリアのための「手段」になってしまう。つまり人のプレイを見ることが「目的」ではなく「手段」になっているのだ。
 人を手段として扱うことについてはいずれ書く予定だが、今はこの動画を参照されたい。

 音ゲーの譜面確認も、楽にクリアしたいという思いから出るものではないのだろうか。しかしそれはその動画を己の目的達成のための「手段」として使っていることになる。

 私は「手段」に使うものが全部悪だとは言っていない。しかしそれがゲームを攻略する「面白さ」「楽しさ」を奪っているのかもしれない。

 実際私も、東方永夜抄EXのスペル「一条戻橋」が何度やっても攻略できなくて、攻略動画を見てしまったことがある。
 さらに、弾幕アマノジャクも攻略動画で攻略法がわかってしまい、簡単にそのスペルをクリアしたことだってある。しかし、その簡単にやってしまったものは、何度やってもクリアできなかったスペルに対して印象が少ない。何度もやったものはどういうスペルか思い出せるが、簡単にやったものはどういうスペルだったか記憶がない。

 上の二軒目ラジオ以降私は自分なりに東方原作をいくつかやったが、この方がとても楽しかった。弾幕STG本来の楽しみ方ができたのだと思う。

 ところで、弾幕ごっこの元、「命名決闘法」の原案「命名決闘法案」には次のようなものが書いてある。

 命名決闘法案
妖怪同士の決闘は小さな幻想郷の崩壊の恐れがある。
だが、決闘のない生活は妖怪の力を失ってしまう。
そこで次の契約で決闘を許可したい。

 理念
一つ、妖怪が異変を起こし易くする。
一つ、人間が異変を解決し易くする。
一つ、完全な実力主義を否定する。
一つ、美しさと思念に勝る物は無し。

 法案
・決闘の美しさに名前と意味を持たせる。
・開始前に命名決闘の回数を提示する。体力に任せて攻撃を繰り返してはいけない。
・意味のない攻撃はしてはいけない。意味がそのまま力となる。
・命名決闘で敗れた場合は、余力があっても負けを認める。勝っても人間を殺さない。
・決闘の命名を契約者と同じ形式で紙に記す。それにより上記規則は絶対となる。この紙をスペルカードと呼ぶ。

東方求聞史紀 160頁

 それと同時に、グリマリの後書きで魔理沙はこう言っている。

 スペルカードというルールを弾幕に設けるというと、自由度が下がったように見えるが実はそうではない。何も制限されていないという事は、何でも出来る反面、すぐに最適解が求まってしまい、余計な事はしなくなるのだ。
 自由ならば『最も使いやすく、最も効果的な攻撃』だけを行えばよい。
 弾幕に置き換えていえば、出来るだけ隙間の無いように撃つか、出来るだけ速く、大きな弾を打てば良いだけなのだ。それでは弾幕とは呼べなくなってしまうだろう。
 つまり、ルールの無い世界では弾幕はナンセンスである。

The Grimoire of Marisa 166頁

この話、神主の実況の話でもあったのだ。虹龍洞で言えば、
「何も制限されていないという事は、何でも出来る反面、すぐに最適解(最強の機体)が求まってしまい、余計な事(何周も挑戦すること)はしなくなる」
「自由ならば『最も使いやすく(早苗)最も効果的な攻撃(カード)』だけを行えば良い。しかしそれでは弾幕(ゲーム)とは呼べなくなってしまう」

 弾幕は決闘であると同時に美しさを目的にする。美しさを競っている。
 しかし決闘だけを目的にすれば、全画面に発射される隙間の無い弾幕になり、美しさを楽しむことが無くなるのだ。
 娯楽のゲームも、クリアするという目的(ゲームによる)と同時に遊ぶということを目的にしている。しかし昨今の攻略動画はクリアすることだけを目的にし、遊ぶことを楽しんでいないのだ。
 グリマリの後書きで神主が言った、

 有用な眼で他人のプレイを見て、プレイ動画がゲームに影響を与えてしまう事は最悪、動画文化の終焉を招く事になるかも知れない。

 とは、ゲームも動画も楽しむためのものではなく手段として消費されるものになってしまうことを指しているのではないか。
 ゲーム実況は他人のプレイを楽しむものだ。それが無くなれば文化が崩壊するのも当然だろう。

せめて新作は

 つまり、神主は実況動画を見ることを楽しみ目的とし、ゲームは遊ぶことを目的とする。お互いはあまり干渉しない方が良いと言っているのだ。
 しかし今の世の中は短くなるプレイできる時間と長くなるゲームをする想定時間のせいで、ゲームを遊ぶことを楽しまずに、楽にゲームを攻略したいという思いも重なり実況動画とゲームを攻略のために消費してしまう。
 だがそうなってはいけない。ゲームも動画も一つの娯楽だ。それぞれで楽しまなくてはいけない。
 ゲームはクリアを目的にしても他人のプレイを鵜呑みにせずに試行錯誤することを楽しみ、動画はプレイを見ることを目的として楽しむ。でなければゲームの面白さや楽しさが損なわれてしまう。

 それができないというならば、せめて「バレットフィリア達の闇市場」だけは他人の動画を見ずにゲームを遊ぶこと楽しむべきだ。いや、動画を見たとしても、そのアドバイスを鵜呑みにせずに独自に試行錯誤を楽しむべきだ。それが「遊んでよ」という製作者の願いだから。

 私は消費されるような実況動画から手を引くつもりだ。作るとしても遊ぶことを目的とした上での実況動画だ。

 さて、正しくゲームを遊ぶ事はできるだろうか?

日々、どうしたら楽しく暮らせるのだろうかだけを考えています(駄目そうな生き方)

 東方の世界では、最高位の幻想に対し空想がもっとも低い位置にある事は昔に言ったとおり。
 でもそれは、現実の世界では空想が最高位である事の裏返しだったりします。

 空想力を高めるにはどうしたらいいのか。それはわき上がる疑問を、解決するべき疑問と、解決するべきではない疑問に分けることが一つの方法です。
 解決するべき疑問はすぐにgoogleでも何でもいいから調べ、最速最善の手で解決させる。解決するべきではない疑問は、決して検索したりせず、常に自分の中で想像し、楽しみ続けるのです。何でもかんでも人の手で最速で解決しようとしては、幻想郷の住人と大差ないですよ?

 そのお陰で私の心の中では、この世に出ているゲームは究極の名作と言わんばかりのゲームばかりになってしまって、毎日が楽しくて仕方がありません。
 何故って? 最近ゲームを遊べる暇が少ないからですよ。解決するべきでない疑問のお陰で、遊びたいけど遊ばなくても楽しい日々。その空想名作に刺激されて私も色々と創作意欲がわきます。

 さて、解決するべきでない疑問とは何でしょう?
 そう言うことを考え続けて毎日を楽しんでいます。

博麗幻想書譜「空想に生きる」

 以上。

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