ことばと国家,そして「純ジャパ」という言葉への違和感
▼社会言語学者の田中克彦氏は『ことばと国家』(岩波新書)の中で,「母語」と「母国語」ということばの違いについて次のように述べています。
母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境からも切りはなし、ただひたすらに、ことばの伝え手である母と受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属しているか否かは関係がないのに、母国語すなわち母国のことばは、政治以前の関係である母にではなく国家にむすびついている。
▼そもそも,ことばの境界線と国家の境界線は一致しません。また,方言も考慮すれば,自分が住む国が独自に定める「国語」や「標準語」と自分の母語が一致しないこともごく当然のことです。
▼私は予備校で毎年,様々な生徒さんと向かい合います。その中には,多種多様な出自を持つ生徒さんがいます。英語の授業では日本語との違いについて説明する場面がよくありますが,その際,「私たち日本人はこのような時,〇〇とは言わない」という言い方はせず,「日本語を母語とする人にとっては…」という表現を使っています。
▼さて,近頃,英語学習の文脈,特に,英語に関する教育産業の売り文句の中に,「純ジャパ」ということばをよく見かけるようになりました。「日本生まれの日本育ちで,日本語を母語とする人」のことを指しているのでしょう。学習者本人が自分自身を「私は純ジャパだから」と表現する分には,百歩譲ってまだ許容できるとしても,指導する側が「純ジャパ向け」「純ジャパでも英語ができるようになる」などと表現することに対しては違和感を感じます。
▼第一に,「純」ということばへの違和感があります。「純」とは「まじりけのない」という意味です。「ジャパニーズ」を意味する「ジャパ」にわざわざ「まじりけのない」という表現をつける必要があるのでしょうか。ヒトラーとナチスドイツは「純血アーリア人国家の建設」を目指し,ユダヤ人や障がい者など多くの人々を虐殺しました。ことさらに「純」を強調するような「純ジャパ(純日本人)」ということばも,ナチスドイツのように他の民族や人種の排除につながるのではないか,という危惧があります。何しろ現職の副大臣をはじめ,歴代の様々な政治家が「日本は単一民族国家だ」と発言してきているのですから,「純日本人」という〈神話〉にしがみつこうとする動きは非常に強力なものなのだと思います。
▼ちなみに,これは3年半ほど前に話題になった動画です,インタビューされている人たちはそれぞれ自分の属する国家や民族,人種について尋ねられ,また,自分が嫌いな国家や民族についても尋ねられます。たとえばバングラデシュ人の男性は「インドとパキスタンが嫌いだ」と,クルド人の女性は「トルコが嫌いだ」というように。その後,彼らは唾液を使ったDNA検査を受けます。その結果,自分のルーツは自分が想像していた以上に多様であり,自分が嫌っていた国のルーツも自分の中に含まれていることが分かります。だとしたら,「純粋な日本人」というのも,何世代もさかのぼれば単なる神話に過ぎないはずです。
▼第二に,そもそも日本人とは何か,という大きな問いが存在します。日本国籍を有している人,日本語を母語とする人,日本に生まれ育った人…様々な説明が考えられるでしょうが,どれも十分な条件とは言えないのではないでしょうか。批評家の加藤周一氏は『日本人とは何か』(講談社学術文庫)の中で次のように述べています。
日本人とは,日本人とは何かという問を,頻(しき)りに発して倦(う)むことのない国民である。(中略)日本人とは何かという問が繰返されるのは,日本人であることが,何を意味するのか,はっきりしないからにちがいない。
▼要するに,「純ジャパ」ということばは,「日本人とは何かはっきりしない。しかし,そのはっきりしないものに『純』ということばをつけて,無理やり『純粋な日本人』という〈神話〉を作り出そうとしている」という実にグロテスクなものに思えるのです。そしてそれを,多様な出自,多様な背景を持った生徒さんを対象としているはずなのに,英語の教育産業に携わる者が無自覚であれ「売り文句」として使用している,という状況に強い違和感を感じざるを得ないのです。
▼もちろん,そのことばを使っている人々はそこまで深く考えずに,また,差別意識などなく使っているのでしょう。実際,「そんなことを考えなくてもいいではないか」「そこまで気を使う必要はないのではないか」という意見も見かけました。しかし,ことばを生業にする人間の末席を汚している以上,私自身は少なくとも,ことばの使い方に対して少しでも敏感でありたい,と思うのです。
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