ついに決定!社会人に求められる〇〇力で一番大事なのは「理解力」

日に日に暖かい日が増え、春の訪れを感じさせる今日この頃。もう一月も経たない内に4月が訪れ、新生活が始まる人も多いのではないだろうか。特に、4月から新社会人になる人はこれまでの学校という、勉強が主軸となる生活から、仕事というぼんやりした、はっきりと掴めないものが主軸となる生活に変わることに大なり小なり不安を感じていることだろう。

筆者も2016年に総合商社 住友商事に入社し、これまで社会人生活を送ってきた。仮に、「社会人に必要な〇〇力」というものを一つだけ選ぶとするならば、筆者は、社会人(に限らないが)に必要なものは理解力であると考える。

全ては「理解」の基に成り立っている

記事を書くにあたり、手始めにネットで「社会人 〇〇力」と検索したところ、出てきたのは社会人基礎力
●前に踏み出す力:主体性・働きかけ力・実行力
●考え抜く力:課題発見力・計画力・想像力
●チームで働く力:発信力・傾聴力・柔軟性 etc.
の三要素であった。これはこれで大事であるということは念頭に置きながらも、筆者は敢えて理解力が最も重要だと唱えたい。

それは何故か、例え主体性があろうが、課題を発見しようが、何かを発見しようが、そもそも対象を正しく理解した上でのものでなければ何も意味を為さない。間違った理解のまま主体的に行動する、間違った理解のまま課題を分析する、間違った理解のまま発信すると、結局は対象の本質から外れ、議論は、業務は一向に進まず、時間の浪費に繋がる。

筆者が担当していたのはIT業界。ITと言えば難しい横文字が並んで、難解なことを話している印象があるかもしれないが、最終的に行き着く先は誰が・どのように・何を使うのかということになる。

例えば、Exchangeのハイブリッド構成における、同一ドメイン内のオンプレユーザとクラウドユーザとのコミュニケーションの課題。これだけ聞けば普通は何の話をしているのかわからないし、とても高度な話をしているようにも見える。ただ、この話は、異なるメールボックスを持つ社員同士がどうやったら問題なくメールを送受信できるか、というだけの話であり、最終的には社員が・どのように(ここが導くべき答え)・メールを使うというところに帰着する。例が多少煩雑になったが、誰が・どのように・何を、というのは仕事を進める上で基本的には変わらない性質で、担当している業務によってその過程が異なっているだけだ。

恐らく、その道で長く勤めている人間であれば、最終目標を見誤ることはない。基本的に業務は今ある課題と、目指すべき姿の策定から始めるのが基本であり、数学に例えるならば式と解を最初に作り、いかに途中式を導き出すかが仕事の取り進めということである(もっとも、課題を策定することすら「現状理解」であり理解力が必要になるわけだが、一旦ここでは割愛することとしよう)。つまり、最初から答えがわかっているのだから、積み上げてきた経験があれば、大方この答え自体を見誤ることはない。謝るのは途中式の導き方や、或いは途中式にある文字の意味、記号の意味である。yとは何を指すのか、何故2y=2xだとx=yということになるのか。これが理解できず、間違った計算式を無理やり解に繋げようとしてしまうのだ。

どうすれば理解力が上がるのか

仮に理解力が最も大事だとわかったところで、どうすれば身につくのか、より優れた理解力を得られるのかを書かないと何の意味もない。とはいえ、筆者は脳科学者でもなければ言葉のプロでもない。あくまでもサバイバルで身につけた理解力向上法故に科学的根拠は一切ないのだが、筆者が考える理解力を養うために必要なのは疑うことである。拍子抜けしてしまいそうな答えだが、筆者なりの理屈はこうだ。

理解に必要なのは、観察し、考察すること。そして、その考察の精度を落とすものが先入観である。先入観は簡単に言えば、元々持っている認識、理解のことだが、理解が理解の精度を落とすというのは矛盾の様にも思えるが一度続きを読んでほしい。

例えば、異国の地の見慣れない料理を見たとして、大概の人間はそれが料理だと理解できる。食卓に並び器に入っていたり、肉や魚、野菜などの見たことのある食材が使われているなど、それらを観察し、これまでの経験を基に考察し、理解する。一方、それが虫を使った、地面に並べられているだけの料理(そんな料理はきっとないが)であったらどうなるだろう。日本人では虫を食料と捉える人は少ないだろう。ましてや地面にあるものが料理なはずはないと、そう思うのではないだろうか。だが、それを食する現地民にとって見ればそれはれっきとした料理であり、場合によってはご馳走かもしれない。

ここで重要になってくるのは
●虫は食料ではない
●料理は地面にはない
という二つの先入観である。日本に生まれ、日本で育った人間からすればこれらは当たり前の常識かもしれないが、その常識は決して真理ではない。真理とは何かを語るには時間も、筆者の力量も足りないのでここでは「そうでなくてはならない、若しくは人智を超えてそうと決まっているもの」とでもしておくが、前述の観点は双方いずれも覆そうと思えばいくらでも覆るものではないか。先入観がある故に、それが料理だと理解することができなかった。つまり、先入観が理解を阻害したのだ。

かなり極端な例になってしまったが、要は大事なことはその先入観を疑ってかかることである。但し、何でもかんでも否定すればいいというわけではなく、あくまでも疑い、それが正しいのかどうかを考察すること、仮に正しくないのだとすれば何故正しくないかを説明できる様考察することが大切なのだ。

筆者は基本的に人の話を100%信用はせずに聞いている。話を聞いた上で、それが正しいのかどうか後で調べたり、内容に矛盾点がないかを常に探している(雑談においては話は別なので、嫌な奴だとは思わないでほしい)。そうすることで、仮に、その人の言うことが100%正しかったとしても、違う角度から考察しその正しさを理論立てて検証ができる。それにより、ただただ話を聞いているだけ、若しくは自分の先入観を基に理解を進めることに比べ、より対象を理解し、さらに言えば言語化できるレベルにまで落とし込むことができる。つまり、疑うことは、正しく理解する力だけでなく、発信する力をも養ってくれるというわけだ。

最後に

だいぶ回りくどい話をしてしまったが、もしこの話が理解できなければ、人に理解してもらえるレベルまで、理解力について理解できていない筆者の力不足ということだ。そしてそもそも、理解力という、筆者の持つ先入観がそれを妨げているのかもわからない。

読者の皆さんも是非、日頃から疑いの目を持って全ての事象に向き合ってみてほしい。(間違っても疑心暗鬼になって周囲の人間と喧嘩にならないように)

延いてはこの記事すらも。

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