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「驪山」の五目焼きそば@松本

 長野県の松本へは新宿から在来線の特急「あずさ」などで約2時間半だ。考えようによってはほどよい時間と距離で飛行機や新幹線とは別の旅情を楽しめるのではないかと私は思う。
 松本での街歩きの楽しみの一つは井戸だ。周囲の美ヶ原、東山などの山々に降った雨や雪が、地下水系を形成し、松本の豊富できよらかな湧水の水源になるのだとか。街じゅうのいたるところに誰でも利用できる井戸が整備されていて、マイボトルを持ち歩いて冷たくておいしい井戸水の飲み比べをする。なんだか昔の旅人になったような楽しい体験だ。
 数年前にオープンした、信濃毎日新聞の松本本社「信毎メディアガーデン」も新名所になっている。建物は伊東豊雄さん設計のものであって、商業施設も上手にセレクトされている。ぶらぶらした後の夕刻、食前酒の時間帯に近くに立地する老舗の人気バー「メインバー コート」でジントニック。ご主人と話していたら、バーで使う水はすべて特定のお気に入りの井戸に汲みにいくとおっしゃっていた。こちらでいただくお酒がとてもおいしい理由がわかったような気がした。
 若いころから池波正太郎さんの食に関するエッセイの大ファンだった。いまでもいちばん好きな新潮文庫の数冊は電子版がライブラリにあり、旅先でもどこでもいつでも読めるようにしている。その何冊かに出てくるお店に、松本の中華料理店がある。今は閉店してしまったという「竹乃家」で、流れを受け継ぐのが「驪山」だ。数年前に念願かなって「驪山」に行く機会を得た。中心部の松本城からはタクシーなら5分10分くらいだろうか、信州大学医学部が近い。地方都市によくある、飲食店数軒が横に並ぶ建物のうちの一軒だ。店に入ってメニューをみる。見事なまでの、日本の広東料理レストランの定番メニューであって、安心してオーダーできるものばかりだと思う。素直に「五目焼きそば」を注文する。やさしい味付け、ほどよいあんかけ、なんとも具合のいい一品である。この街で暮らしていたら、週2、3回は来てしまいそうだ。
 脈々と引き継がれた広東の味を食べ終わって、投宿しているホテルがある松本城の方向に向けてゆっくり歩き始める。すぐに松本深志高校を通りすぎる。熊井啓さんも田中康夫さんもこの道を歩いたかもと想像してみたりする。往時の旧制中学時代を思いながら歩いてくると、松本城に戻る。落ち着いて静かで魅力が幾重にも重なる街である。

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