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5章 人生とは(1)

衣食住と自分の欲求を満たすこと

趣味の大切さ

今、この時点の私の感覚ですが、幸せに生きる人生とは[趣味そのもの]のようだと思っています。

「趣味」を辞書で調べると「①(本業ではなく、また実益などを考えずに)好きでしているものごと。②その人の好みの傾向。③そのものに含まれる味わい(おもしろみ)」(三省堂『現代国語』より引用)とあります。

「本業」が生物として「生きること」だとすると、それ以外の行為や行動はその人自身が選択することができるので「趣味」と同じだと思っています。
そうはいってもいろいろあると選ぶことができないので、お薦めのひとつが「推し活」です。

この「推し活」という言葉自体、私はいろいろな意味や感情が含まれていることは「推し活」をし始めてから理解しました。
「応援すること、それでだけではない!」「応援とは違うもっと深い感情だ!」さまざまな意見をみました。
「もしかしたら私が行っているのは、推し活ではないのかもしれない」そんなことを悩んだ時期もありました。

けれど、今の結論としては「好き」という感情でその対象を選び、その人なりにその対象の活動が続くように(広まるように)行動し続け自己を表現しているので、それは幸せに生きる人生に必要な「趣味」だと思うのです。
そしてそれは、「あたならしさ」を表現するものだということを知ると、より豊かに日々の暮らしを送ることができるのではないかと思ています。

人とのかかわり

人は当然かもしれませんがひとりで生きていくことはできず、必ず誰かや何かと繋がりを持っています。
それは、現実世界もSNSなどの世界でも同じだと思うのです。

SNSではその人の姿やその人の抱える環境を直接体感することができないので、その人個人の物差しで測られた距離感でコミュニケーションをとります。
そして、現実世界ではあまり体験しない個々同士のかかわりの中で、感情のコントロールを失ってしまうこともあるでしょう。
特に、送り手が「集団」に向けて発信したメッセージを「個」として受け取ってしまった場合、思いがけず強いメッセージにストレス反応をしてしまったりもします。しかし、送り手が個の感情を受け止められず「これを見た全ての人に伝わってほしい」と何度も繰り返しメッセージを発信すれば、メッセージをみた全員には伝わるかもしれないがその想いを何度も何度も受け取る人も出てくることがあります。
「本当は、情報を取る選択の自由はあるはずだから、辛くなったらそのメッセージと距離を採れば良いのだろう」と思うかもしれませんが、現実社会ではその人と関わりたくなければ物理的にその人と離れれば良いですが、SNSなどではその入り口は生活に必須になってきているスマートフォンなどであるため、距離を置きにくいのです。
しかも、現実社会では集団の中である人が苦手になった場合、そっとその集団から距離を置くことができましたが、SNSなどでは繫がりは1対1で捉えられることが多いため、集団にいるすべての人が「距離を置かれた」と感じることさえあるのです。

人は誰でも嫌われたくない生き物だから、そうなると過剰反応が起きます。
感情がかき乱され、日々の生活にも影響が出ます。
その状態では自分で冷静に選択をできないから、不満がたまる・・・

この現象は私は、人が新しい文化と社会にまだ人が対応できていないからだと思っているので徐々にこの環境に人が適応して解決していくのではないかと思っています。
また、そう願っています。

人は千年前と変わったか

今の地点から仮に千年前にタイムスリップするとして、いったい何が変わって変わらないのだろうと考えてみました。(千年前と仮に置いているのは、昔は「千という漢字が、数字的な意味だけではなく「非常に長い年代」という意味を持っているので、特に大きな意味はなくなんとなくこの数字にしただけです)

歴史が大好きな私は、その土地を訪れた時に「一体その時代の人たちはどんな気持ちでそんな生活を営んでいたのだろう」といつも想像します。
もう、ずいぶん前にこの世界からいなくなってしまった人々が何をおもって生きたのか、それをその土地の風土を感じながら想像することができるのは同じ人間だからできる不思議な共感体験だと思っています。

美味しいものを食べ、仲間たちと協力し、当たり前の日々を生きる。
大切な人が亡くなればとても悲しいし、辛い。
天災などがあれば明日を生きる希望を見失う。
それでもその時代を精一杯生きる。その歴史の積み重ねの上に私は生きているし、繋がっていると感じる。
それは、難しいことではなく文化や言語、風習など私が「当たり前」だと思っている価値観そのものがその証だと思っています。


また、その人が経験してきた歴史の分その価値観はひとりひとり違いますが、その中で共通なものが「日本人らしさ」というような「○○らしさ」なのだと思うのです。
そこにはその国や地域の歴史や風習が含まれていて、それはそのコミュニティを外から見て初めて分かることなのだろうが余りにも「その人らしさ」の中に価値観が組み込まれている場合、その人はそのことに気付くことが難しいのだとも思っています。

日々の暮らしのような「人間らしさ」は、今も千年前も変わっていないと思いますが一方で、文明と呼ばれる道具や科学の進歩はこの千年で大きく変わりました。

例えば、千年前の日本は平安時代でした。
平安時代にはもちろん車もないし、アスファルトで整備された道路もありません。
天気予報なんてないから、当時の最先端の科学者たちである「陰陽師」が「先読み」をして様々な予報をだしていました。
今のように細菌も見れる顕微鏡なんてないから、占いなどで疫病の原因を特定し、当時国の政治を天皇が行っていたので専門家として提言し、天皇はそれをもとに国の方針を決めていました。
だから、大きな疫病が流行り「都(首都)を変更しましょう」と提言され、それを受け入れれば人々の暮らしなど関係なしに遷都(都を変えること)していたのです。また、国の予算など関係なしに、「大きな大仏が必要だ」と言われれば造りました。
人々は、日々の暮らしだけでなく天皇の方針に振り回されたのです。それを抑えるのに、側近がつくが当時の最終決定権は天皇にあるから、そう決定したら国全体が動く。(もしかしたら、ここは変わっていないものなのかもしれないですね)

けれど、今は科学が発達して原因が「誰でも見える」ようになりました。
この「誰でも見える」ようになるということは本当に大きなことで、誰でも共通のものが見えるようになれば、そのものを否定することができません。そして同じものを共有できれば、それを素に限りなく公平に議論することができます。
また、様々な角度からそれを見ることができるので、それを使って新しい文化や道具が生まれるます。
そうして暮らしは便利になっていきました。

現在の社会はsociety5.0といわれる段階なのだそうです。
現実世界と仮想空間を駆使する便利な世の中で、人間は一人ひとりが持っている自分の価値観をAIなどを使って表現することができるようになるかもしれません。
全体で見ればそうして創られた、新しいコミュニティで人々はその中で日々を暮らしていくでしょう。
そして、より豊かになっていくでしょう。

けれど、それを使うのか使わないのかを選択するのは、あなた自身であり私自身でもあるのです。
それは「今」だから起きているのかというと、そうではありません。

狩猟採集の時代から定住生活になるときもきっと、そのままの狩猟採集の生活を選んだ人もいれば定住し農耕社会に適応した人もいたでしょう。
そして、たまたま新しい社会生活に適応した人々がたくさんいただけかもしれません。
その次の工業社会も情報社会も、その切り替わりの時にはその社会を受け入れ適応するかしないかを一人ひとりが選択して「今」があるのだと思います。

科学などの道具の進歩が先かもしれないですが、それを使用する社会で生きていくかどうかを選択しているのは、どの時代も結局はその時代を生きる一人ひとりの人間が選んだ結果なのだと思います。

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