【小説】幸福 36

香奈はラジオ収録が終わり、ウィリアムと駐車場に向かっていると、男性2人組が近づいてきた。
たまにある出待ちだろうか?
香奈が営業スマイルをしながらよく見ると、大崎と岸だった。

「今度は俺が出待ちしてみた。ごはん行きませんか?」

大崎は後ろで手を組み、香奈に話しかけた。

「予定がありますんで」

ウィリアムが断ったが香奈が小声で遮った。

「予定ないよね?私は大崎さんとごはん行くよ」

ウィリアムが小さくため息をついた後、うなずいたから香奈は大崎に喜んで近づいた。

「どこ行きますか?」

大崎はにこにこしながら道を案内する。

「鼻の下伸ばしやがって。きもいんだよ。エロオヤジが」

後ろからついていく岸が大崎の悪口を言った。

「それ、岸さんが言っちゃっていいんすか?」

ウィリアムが岸に聞く。

「俺が言ってやらないとあいつ、キモいまんまだぞ。ウィリアム君も言ってやってよ」

「俺、本人に言えるかなぁ」

ウィリアムが苦悶しているうちに一同は店に着いた。
入り口に紅葉が飾ってある小綺麗な和食料理屋で高級であることがわかった。
経費で落とせるかなぁと香奈が心配していると、大崎が個室を2つ用意してくれていた。
大崎と香奈は2人きりになって、改めて岡村を見た。
ジーンズにパーカーとラフな格好だが、見えないようにつけられたブランドのロゴから、高級品である事がわかる。
独身の40代半ばはこういうおしゃれをするのか。

「何飲む?」

大崎に聞かれて香奈は我に返った。

「あ、ウーロン茶で」

「ウーロン茶?喉を守ってるとか?」

大崎が眉間に皺を寄せながら聞いてくる。

「いえ、まったく。私、お酒飲むと吐くんですよ」

「吐くの?」

大崎が驚いていると店員が注文を取りに来た。
大崎は日本酒を注文していた。

「出待ちするときは連絡くれるんじゃなかったですか?」

香奈が言うと大崎はまじめに答えた。

「連絡するとウィリアム君に止められると思ったから突然来てみた。今日は大事な話がしたかったんだ」

大事な話?
また捕まったとか?
香奈は身構えた。
注文が運ばれてきたあと、改めて大崎が背筋を伸ばした。

「契約書のことなんだ。賠償金を払うのが俺じゃなくて香奈ちゃんになってる。おかしいって思って、田山社長に電話したんだ」

「田山社長に?お知り合いですか?」

「知り合いっつーか、元上司っていうか、元マネージャー兼プロデューサーでさ、とりあえず乾杯しようか」

二人は乾杯した後、次々と運ばれてくる料理を楽しみながら大崎と田山社長の歴史を教えてもらった。
確かに田山社長は手を緩めない。
だから嫌になる気持ちもわかるから、大崎に共感しっぱなしだった。

「香奈ちゃんが音楽辞めたいって言ってるって田山社長から聞いたんだ。そうなの?」

香奈の箸が止まる。

「はい。岡村さんとのコラボが終わったら辞めようと思ってます」

「どうして?」

何から話せばいいんだろう?
香奈が戸惑っていると、テーブルに肘をついて香奈を見つめている大崎と目が合った。
この姿、やっぱり落ち着く。
それに今日は優しい瞳をしている。

「私、多分、つらかったんです。音楽が好きだけど、頑張りすぎててしんどかった。だから音楽を好きなまま辞めたいんです。それで、音楽の研究は今まで通り趣味で続けて、一人でひっそり暮らしたいです。恋愛ももうしたくないし、達也とかウィリアムを見ると昔を思い出してつらくなるから、私のことを誰もしらない土地に行って生活したいです」

そうか。
私、つらかったんだ。
しんどかったんだ。
香奈は意識しないまま自分の本音を話していた。

「そうか。つらかったんだな。よく頑張ったよ」

大崎が優しく言うから、香奈は涙が次々とあふれてしまった。
ハンカチで抑えて取り繕いたいけど、もう嗚咽すら出始めている。
すると大崎が香奈の隣へ移動して、香奈の背中を撫でてくれた。

「泣きたいときはいっぱい泣いたらいいよ」

香奈は子供のように泣きじゃくった。

「胸、貸して」

「いいよ、どうぞ」

大崎が腕を広げてくれたから、香奈は胸を借りて大泣きした。
温かくて広くて、この体温に包まれていたい。
香奈は大崎の体温で落ち着いてきて、少ししゃべれるようになってきた。

「ぎゅーしてくれませんか?」

「俺のぎゅーは高いよ。でも今日は特別に無料でしてあげよう」

そして大崎が香奈を抱きしめてくれた。
大崎の抱擁は何かピースがピタッとはまったような、すごくしっくりくるものだった。
これ、永遠に感じていたい。
香奈が幸せに浸っていると大崎が話し始めた。

「俺も音楽辞めたいって思ってた時があったんだよね」

香奈は驚いて大崎から体を離してしまった。

「俺の「先生」っていうアルバム知ってる?」

「もちろん。そのアルバムを達也が持ってました」

「あれ、よく売れたんだけど、そのあと、俺、音楽辞めたかった。何もやる気がないのに仕事だけたくさん来てて、でも仕事ができないから結局ドラッグに頼ったんだ」

香奈は大崎の一番暗い部分に触れている気がした。
そんな大事な部分、知り合ったばっかりの私に言っていいのか?

「でもドラッグに頼っても全然だめで、もう死にたいって思ってた。ひっそり死にたいって。だから、香奈ちゃんと同じように、誰も知らないところへ行きたいって思ってた。でも今、俺は生きてる。罪滅ぼしみたいな生き方してるけど、それでも香奈ちゃんに出会えるっていうご褒美があった。だから生きててよかったって思ってるよ」

香奈が心の奥底で考えていた自殺を言い当てられ、香奈はまた涙があふれた。

「つらいことがあったらまず俺に言って。俺が嫌なら岸さんでもいい。まず誰かに言うようにしよう。誰も知らないところへ行きたくなったら、俺だけでも連れて行って」

「大崎さん、忙しそうだから連れていけないです」

香奈はまた顔がぐちゃぐちゃになるほど泣いている。

「忙しくないし、香奈ちゃんのためなら全部捨てれるよ。俺、刑務所行ったから、一回全部捨ててるしね」

大崎は軽く言いながら香奈の背中を撫で続けてくれている。

「なんでそこまでしてくれるんですか?」

大崎は少し笑った後、言った。

「好きだから」

照れくさそうに言う大崎を、涙でぐちゃぐちゃになった顔の香奈が見つめる。
こんなに近くに楽園があるのに、香奈はその一歩が踏み出せない。
背中にひんやりと冷たい闇が広がり、傷が痛む。
これで踏み出して私は何回も失敗してきた。
もうあんな思いはしたくない。
でもこんなに近くに楽園があるのに。

「いや、わかってるよ!俺なんて相手にされないって。ニックって人がいるしさ」

大崎はまた日本酒を飲み干して追加の注文をした。
ニック?
もしかして世間ではまだ私とニックが付き合ってることになってるのか?

「あの、大崎さん、秘密、守れますか?」

急に真剣になった香奈に少し驚きながら大崎は手酌する。

「口は堅い」

香奈は一呼吸おいてから言った。

「ニックはゲイです」

大崎は目を見開きポカンと口をあけて香奈を見る。
そして手酌した日本酒を一気に飲んで言った。

「じゃあ、香奈ちゃんとニックは本当に友達なんだ」

「そうです。でもニックにこのことは言わないでほしいってお願いされてます。だから秘密でお願いします」

「わかった。秘密は守る。ってことは、香奈ちゃんは今、彼氏がいない」

香奈はうなずく。

「じゃあ、俺で休んでいけば?」

少し酔った大崎が香奈を覗き込む。
香奈がぐらいついていると、個室の襖が勢いよく開けられた。

「香奈!グラミー賞、ノミネートだ!」

ウィリアムが興奮して言ったその言葉を香奈も大崎も飲み込めない。

「どういうこと?私達、解散したよ?」

「あぁ、最優秀レコード賞のノミネートだ。ただし、俺たちが解散してるから、ノミネートだけで受賞はないって注意書きがついてる。つまり、俺らノミニーだ!すごいぞ!やったぞ!香奈!」

香奈はやっと状況を把握でき始めた。
私、ノミニーになれたのか。

「香奈ちゃんおめでとう!すごいよ!よかった!」

大崎が香奈と握手して抱擁する。

「香奈ちゃんが頑張って生きてたご褒美だよ」

大崎が笑顔で心からそう言ってくれた。

「大崎さん、ありがとう。でも違う。私のご褒美も、大崎さんと出会えたことだよ」

大崎は驚いて固まっている。
すると岸もやってきてお祝いを言ってくれた。
香奈とウィリアムは会社から呼ばれて、店を出なければならなくなった。

「せっかく誘っていただいたのにすいません」

「いや、こっちはいいから!今からいろいろ忙しいんじゃないかな?頑張って!あ、でも直樹ちゃんとのコラボはお願いします」

岸が頭を下げた。

「もちろんやります。やりたいですから。大崎さん、あとでご連絡しますから」

急いでいるウィリアムが先に会計を済ませに行っていて、香奈が大崎と岸にお礼を言って二人は出て行った。

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