【小説】幸福 30

香奈は無気力な日々を過ごしていた。

音楽を聴きはするが、創作意欲もなく、ただ聞き流しているだけだった。
ニックとのコラボ曲が解散前の最後のMVとなり、再生回数がそろそろ億へ達しそうだし、田山社長のごり押しでベストアルバムを発売することになったから、それもよく売れるだろう。
当分の間、収入には困らないから仕事をしなくていいのだが、ラジオだけは続けさせてもらった。
香奈は自分がやっている仕事の中でラジオが一番好きだったからだ。
自分の現状を話した後、今はギターの弾き方講座と題して、課題曲を決めて弾き方をレクチャーしたり、その曲の特徴を語ったりしている。
きっとコアなファンしか聴かないラジオ番組になっているだろうが、それは香奈の目指していたところだからかまわない。
たまにベースでコラボしてほしいという仕事が来ていたから、ベースなどギターの練習だけは欠かさなかった。
ただ、そういった仕事は受けていない。

果たしてこの状態が香奈の目指していたバンドマンの姿なのだろうか?
月に一度のラジオ番組だけで食っている今の状態でいいのだろうか?
夜、湯船に浸かりながら毎日自問自答していた
答えは出ないまま、酔いそうになり風呂から出て寝る日々が続いた。

そんな香奈のマネージャーをしているウィリアムは香奈を心配していた。
休ませたいから仕事は入れないようにしているが、やる気のない香奈を見るのはつらい。
いつも無謀なことばかり言って、果敢に攻めていたころの香奈を知っているウィリアムは、無気力な香奈を見ると、「こいつ、明日、死んでるんじゃないか」と思うようになる。
香奈にはそんなに簡単に死んでほしくないと思い、ウィリアムはありとあらゆるコンサートやライブのチケットを取ってきて香奈に渡した。
クラシックから演歌、演劇まで、ありとあらゆるジャンルのチケットを取ってきていたため、香奈は毎日何かを見に行かざるを得なくなる。
香奈はその全てに感動するが、意欲は湧かない。
毎日ウィリアムに感想を伝えるが、やはりぼーっとしたままの香奈にウィリアムは毎日落胆していた。

ある日、香奈はBDBというバンドのライブへ行った。
老若男女に好かれる3ピースバンドバンドで、香奈がやっているラジオの先生をしていたこともある。
ベースは香奈と同じ女性で、目立つ演奏はせずに、しっかりバンドを支えていたが、ライブ終盤に入り、急に曲調が変わると、ベースがさっきまでの余裕の表情から、真剣な表情に変わり、客席を見なくなった。
さっきまでの完璧なベースが少し崩れて、今は後ろのめりのベースになっている。
たしかに指使いが難しい曲だ。
だが、香奈の好きなベースだった。
久々に興奮しそうだと感じている、ゲストが登場して歌い出した途端に、香奈は完全に血が沸いた。
きっと40代半ばだろうと思われる男性が、スーツで踊り狂いながら、熱唱している。
歌は完全にブラックミュージックだ。
髪を七三に分けて眼鏡をかけた見た目から想像できないほど、野太い声を出して踊っている。
誰だこれ?
確か達也がCDを持ってた気がする。
その記憶を追ううちに、香奈は初めて買った洋画のサントラのアルバムを急に思い出していた。
映画を見に行って感動して、どうしてもサントラが欲しくなり、貯金箱を割って小銭を集めてタワレコへ買いに行った。
何十枚も小銭を出して買うときにすごく恥ずかしかったが、店員が微笑んでくれたのが嬉しかった。
そしてすぐ家に帰ってCDを聴くと、全身に鳥肌が立った。
歌詞はわからない。
ただ、野太い声がキャデラックと何回も歌っている。
同じメロディに同じ歌詞なのに、毎回歌い方を変えて、すごいと思った。
香奈が初めて触れたブラックミュージックだった。
それを今、目の前でやっている人がいる。
しかも日本人だ。
あの頃の音楽に対する情熱が、打算計算のない純粋に音楽を愛する気持ちが、この人の音楽で今、湧き上がってきている。
私、まだ、音楽が好きだったんだ。
香奈は一筋の涙を流しながら思った。
この人とコラボしたい。
そうすれば私はまた、バンドマンに戻れる気がする。
音楽への熱い気持ちが欲しい。

ゲストの出番が終わったら、BDBのライブをすぐ退場して、香奈はまっすぐ家に帰った。
大崎直樹。
達也から受け継いだ大量のCDの中から大崎直樹を探す。
すると1枚だけ見つかった。
パッケージを見て思い出した。
歌詞も曲も独特で、小学生の香奈には理解できない曲が多かった記憶がある。
たしか、数曲をジャングル、とか、飛ぶ、とか、皮肉とか、そんな分類にした記憶がある。
そしてもう一度聞き返してみると、さっき聞いた声とこのCDの声は全く違っていた。
活動休止していたヴォーカリストによくあることだから、休んでいたんだろうか?
香奈が調べると、大崎は2回薬物で逮捕させていた。
しかも実刑をくらっている。

「なにやってんだよ」

香奈はため息とともに独り言を言った。
パフォーマンスの激しいエイントは、ただでさえドラッグの噂が絶えないのに、前科のあるアーティストとのコラボなんてしたらますます疑われる。
あきらめようとした。
だがどうしてもあきらめきれない。
あの興奮がまだ心臓に残っている。

香奈はまたスマホで大崎について調べた。
2回目の逮捕で実刑判決になったとき、大崎は反省文を詩で表現していた。

君と2人でもう一度暗い海を泳ぎたい

その一節が、ただただ美しかった。
そのときの恋人にあてた詩かもしれないが、香奈にとっては、もう一人の自分にあてた詩のように思えた。
今の私にぴったりの詩だな。
やる気のない自分と、もう一度暗い海を泳いでみたい。
過去の栄光だけで食っている腐った自分から、小銭を集めてまで音楽を欲していたあの頃の自分に戻りたい。
香奈はすぐウィリアムに電話した。

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