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腱鞘炎

ちょっと前に腱鞘炎になった。
多分原因は色々あるが、運動で腕を酷使した挙げ句noteをスマホで書きまくってたせいであると思う。

負担がないように両手打ちでできる限り親指を使わないようサポーターをつけ、腱鞘炎になったことで運動も休むようにした。

元々ダイエットをするために暗闇系エクササイズのスタジオに通い始めた。流行りのハウス音楽に合わせて筋トレとかをするなんかイケてるやつである。効果がそこそこ出たのに気を良くして、のめり込むように通い始めて半年程度。ほぼ毎日運動をしていた。一応趣味と言って差し支えないのかなと思っていた。

その矢先の青天の霹靂のような腱鞘炎。
普通に生活してる限りはそこまで痛くはないものの運動をするたびに意識させられる感覚であった。

当面運動もストレッチも長文のnoteもできないかもと思うと自分が健常者であったことが嫌でも意識させられてきた。

マジョリティから外れると世界に色々な制約がかかる。物理的にも社会的にも。普段五体満足で生きていて全く意識しなかった活動が腕が少し動きにくくなっただけで思いもよらず避けなければいけない活動になる。自分は健常者から非健常者になった瞬間に世界が狭くなるのを感じた。

多分それは身体的な障がいに限るものではないのだろう。発達障がいだったり、言語的なハンデだったり、ジェンダーだったり色んなことが原因で行動や趣味、仕事、社会生活、人間関係に至るまであらゆることに待ったがかかる。

"特権" この言葉自体はちょっと日本語にしてしまうと語気が強いのであまり好まない。(特に自分がマイノリティの立場としてこの言葉を使ってしまうとなんか強い主張をしているような気がしてどうしても避けてしまう)しかし今回、健常者であることは特権だったんだなと思い知らされた気がした。少なくとも運動に制限はないし、移動にも不自由なく体力が続く限りどこまでも行ける。仕事のパソコンだって打つことができる。

今まで(結婚の自由以外にそんなに意識はしてなかったが)自分だって本来だったら普通の人なら享受できるものがLGBTQであるために受けることができない、そんな不自由があるのかもしれないとふと思った。生まれながらにマイノリティ/マジョリティであると特権の存在にすら気づくことなく生きてしまってるんだろうなとも。

今はもう自由に腕も使えるようになり、一応運動も解禁になったが、やりたいことができないのはちょっと生きにくいなあと思った日々だった。


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