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赤だの白だの、愛だの恋だの。

いま住んでいる家を出なければならなくなり、しかし一カ月の家賃が40〜50万円とかかるこの街でラッキーなことにリーズナブルかつ快適な部屋に住めていただけのわたしは、もはや誰かの家に転がり込むしかないのでは、と、不純な理由でボーイフレンドを探しはじめ、その中で某巨大テック企業の男性ふたりと、それぞれデートした。

片方はワインが好きな人。待ち合わせのカフェにたどり着いたら、髪をソフトモヒカンに整えて、明度の違うグレーで統一したファッションに身を包んだスタイルのよい男性が、立ち上がってわたしのための椅子を引いた。ラテ? エスプレッソ? と聞かれて、コートを脱ぎながらレギュラーでいいと応えると、じゃあ待っていて、とカウンターの列の最後尾に向かう。コーヒーくらい自分で買えるのに、と戸惑いながら見つめていたら、こちらへ向かってスマートフォンを掲げるので、何かと思って自分のスマホを見れば、<クリームは?>というメッセージが届いていた。

<いらない>
<砂糖は?>
<いらない、ブラックで>

ブラックコーヒーを飲みながら、彼はありとあらゆる質問をしてきた。どうしてアメリカへ来たの? 日本ではどこに住んでいた? サンフランシスコは好き? どういう音楽を聞くの? わたしの答えを聞いた彼は、僕はマウンテンバイクを運転するのだけど、プレイリストはこれ、と言って、Bluetoothのワイヤレスイヤホンを片方、わたしに差し出してきた。彼は右耳に、わたしは左耳に、それを装着すると、プレイボタンを押す。ひと通り再生したあとは、カラオケのリストを聞かせてもらった。友達の日本人が働いているカラオケダイナーにひと晩いればカバーしてしまえそうな選曲だった。リアクションをしながら、自分の態度が正解なのかよくわからないまま、体が強張ってゆくのを感じる。

冷めたコーヒーの入った紙コップをゴミ箱に捨てて、外に出た。寒くない? 彼はそう聞いて、これまたグレーの手袋を差し出し、装着を促す。どうもありがとう、と返しながら、ゆるい手袋をはめ、サンフランシスコのでこぼこの坂道を下る。どこかでお酒を飲もう。ここはいかにもアメリカンなピザ・プレイスで、ビールとワインが美味い。ベトナム料理の店もある。サケが飲みたいなら寿司屋もあるよ──首を傾げながら結局、窓から店内のチーズや干した肉が見えるイタリアンレストランに入った。彼がサーバーの女性におすすめのワインと料理を尋ねるのを横目に、わたしは彼女の耳にぶら下がった大きくてカラフルなピアスを、好きだな、I like your earingsって言おうかな、と見つめていた。

赤ワインと、わたしの希望したチーズプレートと、彼の注文した脂っこい豚料理を合わせながら、彼は引き続き質問を投げ続けた。よく覚えていない。恋愛において、次の5つのうち君の優先順位は何、とか。聞きながら、あまりにも型式ばった質問に、こいつ詐欺師か? とモヤモヤが募り、わたしはジャムをチーズに載せ、ドライフルーツのような酸味のあるワインで流し込んだ。

マジック・スペルは信じる?

訊ねながら、彼の指が、わたしの左手から肘にかけてを往復する。腕をぬるぬると這う親指の感触が、首筋をびりびりと震わせる。どういうこと? 嫌悪感がきちんと見えるように顔をしかめると、彼は、実はね……と、知人の心霊体験の話をしはじめた。話の途中、わたしは、ところで君がいまわたしの左手を撫でている、それはどういう呪文(スペル)なの? と訊ねた。いや、これは、と言葉を詰める彼に、それ、好きじゃないな、わたしは言い捨てる。彼は、手を離してくれた。

あとはたわいもない会話をした。ところどころで、アメリカの田舎に生まれたことをコンプレックスに思っているのかな、と感じた。格好つけている彼よりも、お酒が回って、下品な笑い声を上げているときの方が、よっぽど安心感をくれるのに、わたしの前で完璧になる必要なんてぜんぜんないのに。

彼の家の前まで歩き、車でわたしの家まで送ってもらった。それからしばらく、毎日、恋愛指南書の巻末付録みたいな質問が届いたけれど、返事をしなかった。そうこうしているうちにサンフランシスコの街でロックダウンが施行され、わたしたちは部屋を出ることが叶わなくなり、いつの間にか、彼からのメッセージも来なくなった。

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もう片方はマッコリが好きな人。サンフランシスコ生まれの白人だけれど、以前勤めていた会社の関係で、韓国で7年暮らしていたのだという。紹介されたときから、気兼ねのない、気怠そうなやりとりに、こいつはわたしの男友達によくいるタイプだ、と思った。

焼き鳥のおいしい日本食レストランに、予約なしで訪れて、案の定、サーバーから席が空くのは22時くらいだ、と言われ、二人で隣のウイスキー・バーに行った。わたしは持ち込み用の生酒を持っていて、冷蔵庫に入れてもらえるか訊ねたら、ウェイターは快諾してくれて、テーブルに着いたわたしたちは夥しいラインアップのウイスキーから気になるものを少しずつ飲みながら、それぞれの好きなお酒の話をしていた。彼は、わたしと同じくらい詳しかった。

日本食レストランから席が空いたという連絡が来て、ふたりはバーを出た。バーの冷蔵庫で冷やされた日本酒はガスのせいでふたが飛んでしまうこともなく、お肉にも魚にもよく働いてくれて、彼も、これはおいしいサケだ、と満足気だった。なぜ僕に会おうと思ったの。そう言われて、マッコリを造っているから、と応える。彼は笑う。デジタルなものを相手に仕事をしているからね、マッコリを仕込んでいるあいだは、生き物と向き合っているような気分になれるんだ。

毎日、彼からメッセージが届いた。マッコリのにおいを嗅ぐ? そう言われて、部屋へ行った。3種類くらい、マッコリを飲んだ。いちばん雑味が多くて酸っぱいやつがおいしい、というと、僕もそれが気に入っているんだ、と興奮していた。

それきり、彼とは会わなくなった。

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新型コロナウイルスの影響で、サンフランシスコ・ベイエリア近辺での家賃が下落しているというニュースを聞いた。以前ざっと見ただけで諦めた情報サイトをふたたび開けば、わたしが現在住んでいる部屋と同じくらいのところまで、家賃が下がっていた。

スマートフォンが光る。製薬会社に勤めていて、街の中心部のデザイナーズマンションで暮らしている、料理上手の男の人。彼のつくる牛煮込みのポレンタ添えを食べ、わたしの持ってきた酸味の強い日本酒を飲みながら、この人と付き合ったらわたしはぶくぶく肥ってしまうのだろう、と思っていた。部屋は見つかった? 次はいつ会える? 今週末、ワインを飲みながら映画でも観ない? 

枕元にスマートフォンを置いて、目をつぶる。目が覚めたら、返事が遅れてごめんなさい、昨日は忙しくて、と応える。

お酒を飲みます