「偉そうに」この言葉が私を律する。
「偉そうに。」
父親にそう言われたのは、まだ私が小学校へ上がったばかりの頃。
親戚が集まり食事をとるとき、
大所帯だったのでいつも大人と子供で
テーブルを別けてご飯を食べていました。
子供達は8人も居るので
ぎゅうぎゅうになりながら
テーブルを皆で囲い賑やかに食事をとります。
まだ誰も席に着いていないテーブル。
「1ばーん」なんて嬉しくなって、
幼い私は真ん中に座ってヘラヘラしていました。
そこは会議であれば議長が座る席、
いわゆる上座。
小学校へあがったばかりの私はそんなことを知るよしもなく、皆に久しぶりに会えた嬉しさが抑えきれずにヘラヘラとご機嫌。
ご飯の準備を手伝うことなく座っていたら、
父に言われた先程の言葉。
「偉そうに。」
楽しくなってワーっと走って
崖から落ちたように、
私は調子にのり過ぎる時がある。
人見知りのくせに、
似た感性を感じたときの人との距離の詰め方、
違う考えを知った時の
関心と興味が沸くスピードの速さ。
出会いの喜びの感度が高い。
noteの中でもコメントを頂けると嬉しくて、
店でのお客様とのやり取りと同じように
変わらず返事をさせていただきます。
しかし言葉だけのやり取りは時に難しく、
実際にお会いしない言葉だけのやりとりは、
私の語彙の乏しさを露呈し、
どこか偉そうな雰囲気で接してしまっているのかもしれない。
誰かを傷つける事は微塵も思っておらず、
自分の感じたことや、
考えを述べているのだけど、
たぶん偉そうなんだろうな。
なぜ、こんなことを書いてるかというと、
ある方とコメントのやり取りをしていたら、
突然居なくなってしまったのです。
その方がは本の書評や短歌などをnoteに載せていらして、ご本人の想いを綴られた文章も柔らかく優しものでした。
このSNSの世界に少し疲れたと仰りながらも、
私のコメントに返事をくださっていたのですが、
私が最後に投げた言葉に対して、
その方から返事が戻って来ていた様子はあったものの、
すでにアカウントが消えていて、
読むことが出来ない。
一体その方は最後にどんな言葉を残してくれたのか、永久に分からないのです。
ああ…やってしまったか、私。
偉そうに、
何か刺さる様なことを言ってしまったのかと思い返えしてみるのですが、本人はその気がないから分からない。
もっとその方の文章を読んだり、
本の書評に触れてみたかった。
と、居なくなってしまった原因が
己であろう者が何を言ってもしょうがない。
私にはその方がどうかまた居心地の好い場所で
のびのびと文章を書いて下さることを願うしかないのです。
そしてこのような様な私みたいな
うっかり者も居るので、
投げられた言葉を全て受け止めようとしなくて良いと思います。
言葉をキャッチするのもしないのも選ぶことが出来るし、一度手にしてみて何か違うなと思ったら、
持ち続ける必要もない。
言葉を発する者も出した言葉は戻って来ないから、
あとは受け取った人に委ねるしかなくて、
決して違いを攻めたいわけではなく、
それを楽しめたら良いのになという想いは
嘘ではない。
だから離れていかれる方も
それが最善であると称えたいのです。
「偉そうに。」
小さい頃に言われた言葉は、
こんな風に時々現れては私を律する。
これはもう私の本質を見抜いての言葉というか、
子供だから、娘だからとか関係ない、
人間として見ている父親からの言葉。
その時は子供に対して容赦ない言葉だったかもしれないけれど、
私はずっと持ち続けていく大切な言葉です。
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