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日記#3 「暇かよ」という言葉の無神経さ

先日,友人と夕食を食べているとき,友人の口からこんな言葉が飛び出した

「暇かよ」

友人とサイト上にある有名な性格診断をしていた.そして,その診断結果から,ハリー・ポッターの4つある寮の内どこに組み分けられるかというサイトを見ていた.そのサイトは,各寮の特性であったり,性格診断の結果から歴史上の人物がどこに組み分けられるかというものをまとめた記事だった.ハリー・ポッター好きの僕たちは,自分がどの寮になるのか嬉々としてその記事を読んでいた.お互いの寮(ちなみに僕はレイブンクロー,一番入りたかった寮)も知り満足した.そして,友人がそのサイトを眺めながら「こんな記事書く人いるんだ,暇かよ」とつぶやいたのだ.

きっと友人は,くだらない面白い事をしている人がいるんだなという意味合いで言ったのだろう.面白ろ半分嘲笑半分といったかんじだ.

何の気なしの,若者の間でツッコミとして使われるこの言葉に僕は引っかかってしまった.なぜなら,僕も"暇かよ"と言われたことがあり,モヤモヤを抱えたことがあったからだ.

例に挙げたいのは,友人にダイエットの話していたときだ.1年程前,太ったのでダイエットをしようと思い,まずは身体の構造から調べ始めた.脂肪を1キロ減らすのに必要なカロリー量,人間がカロリーを消費する仕組み,体温維持により多くのカロリーを消費している等々だ.そこから,僕の考えた効率の良いダイエットメニューの話をした.そのとき,友人から

「暇かよ」

と言われた.ダイエットというものをするために,まずは身体の構造や仕組みを調べるのは僕としては納得のいく手順なのだが,友人はその行為を”暇かよ”と簡単に切り捨ててしまった.

記憶を辿ったところ,これ以外にも言われたことはたくさんあった.これを読む人も記憶を辿ってみて欲しい,きっとあるはずだ.

”暇かよ”と言われた僕の行動は,どれも暇だからという理由で行っていた訳ではない.僕の興味の方向がそこにあり,より知るための調査や行動をしていたのだ.大げさに言うと,この知的探求とも呼べるこの行動(僕はちっとも大げさとは思っていない)は扱う内容が,その人の身近で日常にあるようなものだったら陳腐だと感じるのであろう.きっと,科学や政治,経済,文学など学問分野という分かりやすく何かのた為になっているような例に適用されていれば、素晴らしいものとされるのであろう.

上記の僕の例と,学問に対しての知的探求行動は同じプロセスを踏んでいる.疑問や興味から始まり,解明していくために調査し考え,結論を出す.異なるのは,”ガワ”の部分だ.そんなに,ガワが大事か?

僕は,こうも思った.では,暇じゃない と彼らがはっきり言えることは何なのか.資格の勉強,映画鑑賞,カフェ巡り,音楽活動,読書,DIY.例を挙げだしたら切りがない.これらの内,どれをやっていても”暇かよ”と言われることはないだろう.むしろ,好印象なはずだ.しかし,やっている事は同じだ.

結論に入ろう.くだくだと日常の違和感をぶつけたが僕は言いたいのは,理解できない物を想像しないことは悲しいということだ.人それぞれこだわりがあり,そこから生じる固有の考えや行動がある.それを,扱っている内容などが大衆的ではない場合でも,くだらないと切り捨てることはできない.このように書けば分かるだろう,”暇かよ”はそれくらい暴力的な言葉なのだ.タイトルに戻る,”暇かよ”という言葉は相手の大事にしている事や,その人の行動指針などの一切を否定してしまう可能性のある言葉なのだ.それを,ただのツッコミとしてインスタンスに発してしまうのは無神経で悲しい行為だと僕は思う。

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