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『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観て

「人間と人間の間に媒介として言葉が、力があった時代の最後だったと思っている」

三島の論客、芥正彦氏の今の言葉です。
この作品を語る上で、この言葉をどう理解するかが重要だと思っています。

人間の多くは言葉を通してしかコミュニケーションを図れませんし、他の動物との大きな違いは、人類が言語能力を獲得したことであるのも確かだと思います。
しかし、言葉は完璧な道具ではありません。
それを如実に物語るのは哲学者の記した書物ではないでしょうか。
文字は読めてもストレートに意味が分かることはまずない。
言葉が伝えられる情報量と、その正確さは受け手のリテラシーもありますが、送り手の理解も関係します。
つまり、どちらも実は曖昧です。

批評家の東浩紀氏が語る『誤配』とはこういうことを言っていると思いますし、しかし、それ自体が悪いとかではなく、そういう(間違う)ものだとして、それでも広まっていくことで正しい理解も追随する、的なことなのかと理解しています。(違っていたらご指摘ください)

それでも相手が何を言いたいかを理解しようと努めることで、人間は前進してきたと思います。
言葉に力がある、とは何かといえば、言葉が意味する文脈を共有できる、ということだと理解します。
つまり、あれを最後にその文脈は失われた、ということを芥氏は言ったのだと思います。
議論をする際に双方の共通前提が少ないと、まず議論にはなりません。

この映画が面白いと思えるのは、言っている意味が分からなくても(形而上的でも)当事者同士がそれを理解した上で、言葉の応酬が繰り広げられていることだと思います。
この舞台は東大ですので、学生は衒っている部分がないとは言いませんが、そこを三島は理解した上で冷静に応え、そして鋭い指摘には言い訳をするわけでもなく、認めた上で、その先を行く『理念』を語ります。
この強烈な理念が三島の魅力であるし、それに対し、学生の多くが一種のファッション感覚で参加している表面的な運動に対する抱く三島の疑念や憂いが伝わってくる討論だと感じます。
知性を兼ね備えた本気の保守(理念のために死を厭わない者)である三島由紀夫は結果的に自決します。

このある意味去勢された右翼(保守)や、ファッション、トレンド感覚で運動に参加し、意味を喪失した学生、そして今もって揺らぐことなく活動する芸術家は、過去を振り返ってインタビューに答えています。
それは見どころの一つでもあると思います。
あの場で本気だったのは芥氏と三島由紀夫だけだったのでは、と感じさせられます。

三島を描いた作品に『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(若松孝二)があります。
これを観た後にこちらを観たことは大きかったと思います。
盾の会についても理解が深まります。
同監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』もまたすさまじい作品でした。
これも対になる『突入せよ! あさま山荘事件』(原田眞人)というメジャーな映画があります。
セットで観たいですね。
『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』はある程度当時の流行哲学なんかも知っていると面白いかもしれません。私はまだまだ語れるほど知識がないですが、やはり存在についての革命児であるハイデガーはかじっていると面白いかもしれません。
その後の哲学は彼の存在論を元に論じられていることも多いと思います。

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