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LGBTとカルト宗教


日本は元からLGBT後進国だったわけではない

『彼女が好きなものは』という映画を視聴した。

浅原ナオトという人が小説投稿サイト『カクヨム』にアップロードした『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』が原作です。

同性愛者の男子高校生を主人公とした青春小説で、10代の男女の日常と心情が非常に細やかに描写されていて、台詞にもセンスが感じられ、苦悩を描いている為に重くなるパートもありますが、全体的には爽やかな作品に仕上がっているなという印象を持ちました。

なお原作者は急死されたようです。
ご冥福をお祈りします。

この作品を取り上げた理由ですが。
驚いたからです。
何に驚いたのかというと……。
ここまでの同性愛に対する無理解と偏見が今でもあるのかと。
LGBTであれだけ騒ぎになっているのに……。

映画は2021年に上映されていて、原作小説の連載は2016年です。
2016年頃だったら、まだ可能性はあるな、と思いました。
言い替えれば、この作品が成り立つ程に、リアリティーを読者に感じさせる程に、同性愛に対する無理解と偏見が、社会にまだ根強く残っていた、という事です。

日本では1988年に昼の高視聴率番組であった笑っていいともでMr.レディー、Mr.タモキンの輪というコーナーが放送されて、ゲイブームと呼ばれるものが起きました。

ゲイ・ブーム
Mr.レディーブームとゲイブーム

1988年、フジテレビ系バラエティ番組「笑っていいとも」で始まり、その後に1年続いた人気コーナー、「Mr.レディー & Mr.タモキンの輪」が火を点けたニューハーフブームがまず起こり、1990年頃からはメディアで「ゲイブーム」が起きた。比留間久夫の新宿二丁目を舞台にした小説「YES・YES・YES」(1989年)が文芸賞を受賞し、多くの週刊誌で取り上げられ話題になった。それに続き文藝春秋の雑誌クレア(1991年2月号)が、「ゲイ・ルネッサンス'91」という医学・社会・文化・芸術・風俗など多岐にわたる47ページのゲイの大特集を組んだのを筆頭に、IMAGO「ゲイの心理学」(91年2月号)、SPA!「ゲイの聖地・新宿二丁目ヌーベルバーグ体験ルポ」(91年4月24日号)、DIME「仕事ができる女はゲイが好き」(91年5月16日号)、朝日ジャーナル「ゲイに恋する女たち」(91年7月12日号)、インパクション「ゲイリベレーション」(71号8月発売)、アエラ「当世大学生事情 キャンパスに咲く“ゲイ・ルネサンス”」(93年10月25日号)、マルコポーロ「普段着のゲイ」(94年2月)など多くの雑誌がそれに続いた。別冊宝島でも度々同性愛が取り上げられ、テレビの情報番組などでもゲイ特集が組まれることがあった。1990年には「動くゲイとレズビアンの会」(通称OCCUR)が東京都の宿泊施設の利用を拒否されたことがメディアに取り上げられ(「府中青年の家事件」)、結果として同性愛が注目を浴びることになった。
文学
文学の分野では他に、両刀の男娼を描いた中上健次の『讃歌』(90年)、比留間久夫の2作目でゲイとニューハーフを描いた「ハッピー・バースデイ」(90年)も話題を集めた。エドマンド・ホワイト「ある少年の物語」、「美しい部屋は空っぽ」、ジョン・フォックス (作家)の『潮騒の少年』、パトリシア・ネル・ウォーレン「フロントランナー」など、海外ゲイ小説もこの時期に邦訳され、西野浩司のゲイ短編集「ティッシュ」(95年)、「森の息子」(97年)などもゲイの間で脚光を浴びた。1996年には、高校の男性教師と男子生徒との同性愛関係を描いた福島次郎『バスタオル』が第115回芥川賞候補となった。SEXを終える度に、精液を拭って押入れに放り込んでいたバスタオルがタイトルになっており、この作品は宮本輝と石原慎太郎が絶賛している。
映画
ゲイ映画も多く公開され、1980年代後半のイギリスのゲイ映画『アナザー・カントリー』、『モーリス』の日本公開を経て、ゲイの青年同士の恋愛模様をドッキュメンした小島康史監督「らせんの素描」(91年)、リヴァー・フェニックスとキアヌ・リーブスがゲイの男娼役で主演した『マイ・プライベート・アイダホ』(91年)、豊川悦司と筒井道隆がゲイ役を演じた『きらきらひかる』(92年)、中島丈博監督『おこげ』(92年、一部は二丁目で撮影されている)、キャストに奥田瑛二演じるゲイが登場した滝田洋二郎監督の『眠らない街 新宿鮫』(1993年)、橋口亮輔監督作品で、袴田吉彦がゲイの男娼役で主演した『二十才の微熱』(93年)、岡田義徳がゲイ役で主演しロッテルダム国際映画祭でグランプリを受賞した『渚のシンドバッド』(95年)、トム・クルーズとブラッド・ピット主演の『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(94年)、レオナルド・ディカプリオが主演した『太陽と月に背いて』(1996年日本公開)、今泉浩一監督の『憚り天使』(1999年)などが公開された。
ドラマ
テレビドラマでは、日本で初めて本格的に男性同性愛を全編に渡って描いた日本テレビ系連続ドラマ「同窓会」(93年)が話題を集め、放送時間帯には新宿二丁目が閑散としたといわれた。その他、キャストの一部に西島秀俊演じるゲイが登場するフジテレビ系「あすなろ白書」(93年)、同性愛がテーマで池内博之主演の日本テレビ系「告白」(97年、エンディング主題歌も同性愛がテーマのユーミン『告白』)、つかこうへいの戯曲が原作で、五輪を目指し水泳に情熱を燃やす2人の青年の愛と葛藤を描いた同「ロマンス」(99年、新宿二丁目でもロケが行われた)などが放映された。因みに「同窓会」では野外の出会いの場や二丁目のホストバーが、「新宿鮫」ではゲイの旅館が出てきて衝撃を与えた。また「同窓会」に出てくるゲイバー「スプラッシュ」の店名はニューヨークに実在したゲイバーから取られ、セットは二丁目に実在した「ZIP」(現ANNEX)がモデルだった。その他TBS系「上岡龍太郎がズバリ!」でもゲイの回が放送され、「ゲイ50人」(Badiに出演者募集のTBSの広告が掲載された)や「サラリーマンのゲイ」のほか、ニューハーフの回も多く放送された。
ゲイナイト
ゲイ・レズビアンナイト文化も開花した。1989年5月13日には日本初の一般向けクラブでのゲイナイトが新宿花園神社裏の「ミロス・ガレージ」で始まり、1991年には芝浦の大箱「ゴールド」でも開催された。同年には大阪「ゲネシス」でも開かれた。初期のゴールドなどのパーティーにはニューヨークからGO-GO-BOYSが招かれることがあり、ドラァグ・ショウもゴールドから始まった。こうしてゲイナイトは日本のゲイシーンの一つとして定着していった。1994年にはユーミンこと松任谷由実がBadiの創刊準備号(1994年)を脇に抱え、仲通り交差点の「薔薇の文庫センター」「ベルジュルネ」(後に「レインボーワールド」に統合,現在閉店)の前で写真に収まったことは有名。そのほか90年代は、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(92年)やゲイパレード(94年)が始まったり、新興ゲイ雑誌のBadiとG-menの2誌が創刊されたり、ゲイビデオ会社が激増した時代でもある。このようにゲイが注目を集めたり、ゲイマーケットが拡大した一連の現象は90年代ゲイブームと呼ばれる。但し90年代にゲイを取り上げたメディアの多くは一部を除いて、女性の目を通してみたゲイとか、女性にゲイが人気という脈絡のものが多く、ゲイブームといってもゲイ当事者が不在の仮初もしくは偽物といえるものだった。ゲイ当事者が主体的にメディアに関わり、注目を浴びるようになるには2000年代まで待たねばならなかった。

日本における同性愛 ゲイブーム 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

90年代の空気を覚えている人はわかると思いますが、ネタとして消費されていた面もあるのでしょうが、同性愛者が市民権を得て、普通の人として受け入れられるところまでは行かなかったものの、変わった人達として社会から受け容れられるところまでは行っていたのではないとか思います。

00年代前半になると、都市部は別として、流石に地方では、まだまだ差別も偏見もあり、親にカミングアウトするかどうかで人騒動起きるといった事もあったようですが、それでも徐々に、社会の理解は進んでいった。

と思われていました。

LGBT問題に関して、日本では、海外と比べて理解が遅れているという枕詞がよくつくわけですが、実際には、元からそうだったわけではないのです。

少なくとも、00年代の初め頃、半ば頃までは、海外と比べて遅れているなんて事はなかったと思います。

そもそも日本は非キリスト教圏の国であり、同性愛に対して宗教上の理由から禁じたり、差別や偏見があるというわけではありませんから、一旦、社会に容認する空気が醸成されれば、意外と円滑に理解が進むだろうと考えられます。

それ以前の問題として、日本は元々、同性愛には寛容な国で、武家であれば衆道と呼ばれる男色文化があり、江戸時代には陰間と呼ばれる男娼までいる状況で、同性愛はごく普通に認められていました。

同性愛を排撃するようになったのは明治以降の話で、政府が推進した近代化政策、欧化政策の中に、キリスト教的な価値観である同性愛に対する忌避感情が一緒に輸入された事が原因です。

近代
幕末・明治初期:男色文化衰退、地方レベルではなく全国で初の違法化(一時的)


元治元年(1864年)5月20日の近藤勇の書簡には新選組局内で「しきりに男色が流行している」と記され、隅田川では若衆を侍らせた船遊びをする光景が明治維新直前にもみられた。明治初期は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身者の男色の習慣が有名で、記録が多く残っている。しかし同時に明治維新の辺りから文明開化の影響もあり、同性愛をソドミーとして罪悪視していた西洋キリスト教社会の価値観や、同性愛を異常性愛に分類した西欧の近代精神分析学が流入したことにより、急速に異端視されるような状況となった。

ゲイリー・P・リュープによると、鎖国時代まで日常的に堂々と行われていた日本の男色文化が、開国時に続々とやって来た西洋人たちの非難に晒されたことで、当時の指導者たちが不道徳なものへと変えていったという。ミッション系の東京女子大学初代学長にもなった新渡戸稲造は、男色について「野蛮で暴力的な行為であり、精神修養により抑えなければいけない」と説いた。ジェームス・カーティス・ヘボンが編集し、1894年に出版された『改正増補和英英和語林集成(第5版)』には、「NANSHOKU(男色)」、「WAKASHU(若衆)」、「RENDŌ(孌童)」、「KAWATSURUMI(カハツルミ)」、「NENJA(念者)」、「KAGEMA(男娼)」など、同性愛関連の語彙が多く収録されているが、語義の説明には総じて「sodomy」「sodomists」という語が用いられている。幕末から急激に衰退していった背景には遊郭など高嶺の花だった女性の売春が娼婦など手軽になったことや農村部に比べて男性に対して少なかった都市部の女性人口比率改善により、女性と性的行為が出来なかったために機会的同性愛をしていた男性が男色をする必要がなくなったからとの意見がある。

日本における同性愛 近代 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

その戦前ですら、男色文化は徐々に復活していき、流石にあけっぴろげという事はなかったみたいですが、江戸時代のように、ごく普通に同性愛が行われるような社会になったようです。

つまり、00年代の段階で同性愛に対する理解が相当進んでいたにもかかわらず、2016年に『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』がアップロードされて、リアリティーを伴った作品として支持されて、書籍化、ドラマ化、映画化されるというのは、そういう異常な事なのです。

昔の時点で同性愛に対する理解が停止したか、あるいは、逆に理解が後退し、差別や偏見が強化されていた、という事になるからです。

その原因を推測して辿り着くのが、カルト宗教なのです。

元凶はカルト宗教

カルトとして有名な統一教会はキリスト教系ですので反同性愛です。

また、禁欲主義であり、子作り以外の性交渉を禁じており、婚前交渉の禁止、自由恋愛の禁止を教義としています。

このあたりの事情は散々報道されているのでご存知だと思います。

統一教会の女性幹部が、正体を偽って一般の学校に入り込み、性教育の講師として中高生に統一教会流”純潔”教育を説いて回っていることが判った。

その講演内容は、エイズ患者の写真を見せて殊更に性感染症の恐怖を煽り、“純潔”を推奨したかと思えば、あげくの果てにはトンでもニセ科学話を生徒に刷り込むという呆れた代物だった。

(中略)

そんな合同結婚式“祝福”カップルから生まれた子どもは“祝福二世”と呼ばれ「原罪の無い神の子」として教団の手厚い“保護”の下、従順な信者にすべく育てられてゆく。恋愛を禁止されることは勿論、異性の友人を持つことすら厳しく咎められる程の“超”管理教育下に置かれる二世は、貞操を守り、童貞と処女という“清い”身体でマッチングされた相手と祝福を受ける“純潔教育”を徹底指導される。もし祝福を受ける前に異性と肉体関係を持ってしまうと「脱線」や「重大な逸脱」として「大罪を犯した」と誹りを受け、再教育施設へ送り込まれるのだ。この様な“脱線”した二世信者が強制受講させられる純潔教育修練会では 「自由恋愛やフリーセックスなどの堕落したカップルから生まれてくる子供には障害児や奇形児が多い」などと根拠のない悪質なデタラメが繰り返し吹き込まれるという。
従順な二世程、偏った認識を刷り込まれてゆくのだ。

統一教会の女性連合幹部が正体隠して中高生に“純潔”性教育(前編)
ややカルト新聞 2014年8月13日水曜日

上記の記事で正体を隠して学校に潜り込み、性教育と偽って純潔教育を推進していた、という事が書かれていますが、統一教会は、自分達の素性を隠して一般人のふりをしては、統一教会の教義を巧みに広めようとする、自分達の意見が多数派であると偽装しようとする、という事を繰り返しています。

20年近く前の話になりますが、2ちゃんねるで統一教会の学生組織である原理研究会が教会員の学生を動員し、執拗なネット工作を行っていたとされる問題が発覚して、物議を醸した事があります。

ネット掲示板は匿名が書き込める為、IDが出るスレッドだったとしても、回線を幾つか使用すれば多人数が書き込んでいるかのように偽装できますし、実際に元2ちゃん管理人のひろゆき氏が語った話ですが、ネット掲示板というのは、スレッドに5人とか10人くらい常駐させて、自分達に都合のいい情報を書き込ませ続ければ、ジャックする事が可能なのだそうです。

統一教会に限った話ではないのですが、そのような形でスレッドに信者達を数名配置し、しかも各人に幾つかのIPを用意して、ネットに書き込みをさせてスレッドをジャックし、自分達の語る意見が多数派であるかのように偽装するわけです。

そしてそれを閲覧した人や、書き込んでいた人達は、まさかそんな工作が行われているだなんて夢にも思わないわけですから、自分の意見が世間一般の感覚からずれているのではないかと思い込み、中には、自分の意見を多数派の意見に合わせようとして、考えを改めたりするわけです。

また、ネットの意見を参考にする人達は、それで現代の日本の多数派の意見だと思い込んでしまう。

今でも性が絡むような問題について論じるスレッドでは、同様の手口でカルト教団が教義を広める場として悪用しているものと考えられます。

ネット上での動きはほんの一例で、このような形で、カルトはあらゆる手を使って自分達の教義を社会に浸透させようとする工作活動を行っていて、その全容はまるでわかっていませんが、それが極めて広範囲で、大規模で行われている点には疑いの余地はありません。

少なくとも、その事が原因で、今の日本社会は、かなりカルト側の教義が反映された価値観に変質させられているものと考えられるわけです。

具体例を挙げると高校生と恋愛がそれにあたります。

日本は高校生の恋愛には寛容で、自由にすればよいという風潮が強いです。

ところが、高校生は未成年であると、徒に未成年である事を強調し、未成年から交際を迫られても、大人なら断るのがモラルだ、だの、未成年との性行為は淫行条例違反で犯罪だ、だの、高校生を恋愛対象にする奴はロリコンだの、あらゆるロジックで高校生と成人との恋愛を否定し、犯罪だと言い張り、反対するロジックを取る人達がいます。

全員がそうだとは言いませんが、この種の書き込みをしている人間の多くは、一般人を偽装したカルトの信者です。

傑作だったのは、婚姻可能年齢が16歳から18歳に引き上げになったわけですが、その事を指して「これで高校生と付き合った成人が結婚する為の真剣交際をしているという理由で淫行条例の適用対象から外れる事になる」だとか、「高校生との恋愛を合法とした判例が見直される」等と言い放つカルト信者がいた事です。

判例というのはこれの事です。

2007年5月23日に下された判決によると、男性は副店長を務めていた飲食店で、アルバイトをしていた女子高生(当時17歳)と知り合い、06年4月ごろからデートを重ねるなど交際。同6月以降には、名古屋市内のホテルで計7回にわたり少女とホテルで性的行為をした。男性は当時、妻と子1人と3人で暮らしており、女子高生とは「不倫関係」にあった。女子高校生の母親が、2人の関係を知り、(弁護側によれば「女子高生の意に反して」)女子高生を連れて被害届を出し、男性は逮捕、起訴された。

「淫行」と「純愛」の微妙な境界

裁判では、こうした事実を踏まえ、被告である男性が「単に自己の性的欲望を満たすだけの目的」で性行為に至ったのかが争われた。

山本正名裁判長は判決文のなかで、「不倫」「結婚を前提にしない」というだけでは刑事罰との対象とはならず、加害者と青少年との関係性、行為の手段方法、状況等の外形的なものを捉え、青少年の保護育成上危険があるか、加害者に法的秩序からみて実質的に不当性、違法性があるか等、これらを時代に応じて『社会通念』を基準にして判断すべき」と述べた上で、一定期間に映画を見に行くなどのデートを重ねたこと、女子高生も男性に対して好意を抱いており、合意や心的交流があったうえでのセックスだったことなどから、「淫行」に相当するというには相当な疑問が残るとして、男性を無罪にするとしている。

上記の記事より引用

そもそも淫行条例自体、過去の判決で判事の一人が違憲であるとの意見を述べた代物で、違憲性の極めて高い典型的な悪法です。

福岡県青少年保護育成条例事件の最高裁判決においては、3名の裁判官(伊藤正己判事・谷口正孝判事・島谷六郎判事)が「福岡県の淫行処罰規定は違憲であり、被告人は無罪である」という趣旨の反対意見(少数意見)を述べている。

たとえば谷口正孝判事(当時)は、「青少年の中でもたとえば16歳以上である年長者(民法で女子は16歳以上で婚姻が認められている)について両者の自由意思に基づく性的行為の一切を罰則を以て禁止することは、公権力を以てこれらの者の性的自由に対し不当な干渉を加えるものであって、とうてい適正な規定とはいえない」としている。また女子の場合、婚姻可能年齢との矛盾も抱えている(ただし、2022年(令和4年)4月1日以降は、男女とも18歳以上で婚姻適齢となる(改正民法)。

学説上は、個人のプライバシーを侵害しかねず恣意的に解釈される、罪刑法定主義に反するなどの批判的な意見や、政府・国会が立法を懈怠して、その責任を地方自治体に丸投げし、条例制定権に委ねた結果、法定刑や構成要件に不均衡が生じていることや、地方自治法第14条第2項の罰則が限定的であり、厳罰化に対応できない点などの制度的欠陥から、国(政府)による法規制を求める意見もある[要出典]。

淫行条例 反対意見 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

女性の婚姻可能年齢が引き上げられたところで、淫行条例の判例が変更される事はありませんし、また、結局、法律や条例を悪用して、高校生が恋愛し、性行為する事を禁忌にしたいだけなのだなというのがよくわかります。

この淫行条例自体、場合によっては、統一教会も制定に何らかの間接的な関与をしていた可能性も考えられますが、そこまで行くと話が逸れますので、この点について深く掘るつもりはありません。

高校生の恋愛に関しては、流石に、未だに多数派の意見は容認で変化ないとは思いますが、それでも、高校生が成人男性と交際する事に対して、反対するような意見を述べる人達が、徐々に増え始めているように感じます。

このような現象が起きたのは、やはり、ここ10年くらいの変化です。

統一教会は、2009年に自民党が衆院選で大敗北を喫し、その事で同等と急接近して関係を深め、2012年末の政権復帰後は、自民党を介して強力な政治的影響力を様々な方面に発揮して来ていた事が解っていますが、上述のような世相の変化が起き始めた頃と、統一教会が強い政治的影響力を有するようになり始めた時期が、綺麗に重なっているのです。

統一教会による純潔教育の国民への浸透戦略が一定の成果を得た結果と見れば、彼らは反同性愛であり、LGBTについては言語道断だと主張しているわけですから、同様に、それらの工作活動も、一定の成果を得ているものと考えられます。

これが日本がいつの間にかLGBTに対する理解が遅れている後進国になってしまっていた元凶ではないかと考える根拠です。

カルトに蝕まれる社会

カルト教団は自分達の存在を隠して活動します。

教義を広める為に、一般人を偽装して活動し、一般人が警戒しないようにロジックを組み立て替えたりして、ソフトな戦術で自分達の意見が国民に支持され、浸透されるように小細工します。

性教育の現場に素性を隠して潜り込むとか、ネット掲示板に一般人を偽装して書き込んで、自分達の教義が支持されたのと同じ状況になるように持ち込もうとするとかは、まだ目に見えやすいものです。

芸能人を使って、露骨にならないように、教義に沿った生活を賛美するような意見をテレビや雑誌、講演会等で述べさせて、ファンや視聴者、読者、聴衆に支持させるように仕向けるとか(芸能人を広告塔として使用したこの種の手口も比較的知られたものですよね)、テレビや雑誌に教団の教義に沿ったテーマの特殊なや記事を報道させて、気づかれないように、教団の教義を支持するような人達を増やしていくとか。

かなり巧妙な手口で、国民が教義を支持したのと同じ状況か、あるいは似た状況に持ち込もうとしている事は確かですので、耳障りのいい言葉に騙されて「この考え方はいいな」と思っていると、実はカルトが教義を支持させる為にやっていた謀で、間接的に教義を信仰させられていた、なんて事になりかねないわけです。

例えば先程の高校生の性と恋愛に関してですが、最近、統一教会が悪用しているのが、妊娠の問題です。

性行為すると妊娠してしまうが、10代での出産は危険なので、高校生の性行為そのものを、性交同意年齢を18歳まで引き上げて違法化すべきだ、性行為させないように性教育を徹底すべぎだ、といったロジックを取っています。

論理の飛躍がある事は言うに及びません。

コンドームの使用や経口避妊薬の推奨、また、アフターピルもあるわけですから、その存在を周知すればいいだけの話です。

何故、出産には危険が伴うからという理由で、いきなり性交同意年齢を18歳まで引き上げて違法化しろとか、性行為させないように性教育を徹底すべぎだなんて話になるのか、という事です。

その癖、統一教会は、妊娠や性病の蔓延を防ぐ為に活動していた女性の産婦人科医を脅迫して、正当な性教育を妨害するような真似をしているのです。

呆れて物も言えません。

今挙げたのはほんの一例で、統一教会をはじめとするカルトは、一見すると「まともな事を言っている(もっともらしい事を言っている)」かのように偽装して、教義を守らせようと仕掛けてくる点に特徴があるのです。

カルト教団は信仰と教義の拡散を行っていて、早く言えば、自分達の教義と信仰に従った社会に、日本社会を替えたいという願望と野心を持っています。

統一教会なら男女が自由恋愛せず、教団が決めた相手と結婚し、結婚後、初めて性行為を結び、子作り以外に性行為はしないという社会に日本を作り替える事を目指しているわけです(勿論それだけではありませんが)。

カルトを監督する官庁も作らず、野放しにしておけば、日本社会がカルトの価値観で汚染されて、どんどん変質して行ってしまうのです。

カルトは一日も早く、全て潰すべきです。


追記

元々、文学の世界では、同性愛はテーマとしてよく使われるようです。

純文学では、そういった設定でなく、社会問題として、90年代や00年代には同性愛者の出てくる作品が、食傷気味になるくらい、沢山作られました。

性同一性障害が世間に知られるようになったのもその頃ですし、金八先生で取り上げられた事もあって(2001年の第6シリーズ、上戸彩さんが演じている女子生徒が性同一性障害という設定です)、かなりの注目を集めました。

民主党政権時代の頃までは、少なくとも、この種の問題で日本が海外と比較して特段遅れていると言われる事はなかったと記憶しています。

だからこそ、現在のLGBT後進国と言われる状況は異常なのです。

意図的に誰かが仕掛けて推進を妨害しない限り、起き得ない状況で、だからこそその黒幕としてカルトの存在が浮かび上がってくるのです。

同時に、LGBTの人達が、政治運動をする事で、今後こそこの問題を社会に浸透させて、市民権をきちんと得て、普通の人として生活できるような社会に作り替える事に強い感情を持つのだろうな、という事も理解できました。

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