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とある大学生活の回想

元奨励会員のS先輩との対局が既に10局は過ぎた、夜半の頃合いであったろうか。折り畳み式の古ぼけた将棋盤へ、更に湿り気を含ませるようなT先輩のシャワー音が、なかなか止んでくれなかった。

僕の田舎だったら、とっくに風呂場から摘まみ出されて、殴られていてすらおかしくないな、これだから都会のお嬢様は、などと、つい雑念に逃げ込んでしまうのが、この先輩との将棋の常だった。

名棋士を多数輩出してきた北海道出身のS先輩の将棋は、とにかく正統派だった。矢倉、厚み、駒得。詰みがあるのに詰まさないのは恥。
麻雀に置き換えれば、良形、役有り、局捌き。通せる牌を読み切れずベタオリはダサい。
御自身から多くは語られなかったが、地元では神童と称されていたらしい。聞き飽きるほど。プロ棋士の御多分に漏れず。
本格的に将棋を始めたのが高一からの私とは、知識・経験・直感いずれも段違いだった。盤を挟む度に苦しくて悲しくて、その上いつまでも差は縮まらず、半ば馬鹿馬鹿しくすらなっていたが、何故かSさんは十数名はいた大学将棋部員の中で私ばかりをご指名するので、断れる理由もなく、バイトで行けない日を除いて毎日のようにお付き合い申し上げる、大学一年の秋だった。今晩も形勢は芳しくない。

「M君いつも負けてない(笑)」バスタオルが巻かれた、女工の如き薄っぺらな身体には似つかわしくない、艶やかで豊かな黒髪を荒々しく掻き上げながら、T先輩が僕の隣に座った。風呂場のドアは開けっ放しで湯気が漏れていた。縺れた重い毛先で、駒台の駒が軽く擽られている。
「とりあえず着替えたらどうですか(笑)」「ごめん、あまりにも悲惨な局面だったからつい(笑)まだ私のほうが強いんじゃないの」「晩学の身では永遠に元中学生女子名人様には敵いませんよ」「相変わらず煽るね~」「いやいや何を言ってるんですか、とりあえずさっさと髪乾かして着替えてきてからケチ付けて下さい、親御さんが泣きますよ」「ハイハイ分かりました、深夜の将棋オタク君」立ち上がったT先輩の後ろ姿は、垂れ下がった髪に覆われんばかりにこじんまりしていた。
ドライヤーの音がうるさいなと思った。

「今メール来て、僕の部屋で麻雀打てないかって。普段使っているアパートに最近苦情があったんだって。どうかな、嫌?」Sさんが、もはや儀式のような手を指しながら呟いた。寡黙だけど冷たさは感じさせない声質の方だった。いつも頬の丸みが朗らかだった。「僕は別に構いません。面子に組み込まれるかもしれませんが」「ちょっと行き詰まってる感じだし気分転換に良いかも。棋譜並べは続けてる?」「はい、羽生谷川100番勝負と天野宗歩全集は並べ終わりました」「もう一周してみるといいよ。焦らず指手の意味をじっくり考えながら」「はい、まだ盤に並べても、ふわふわしてる感じなので、手に馴染むぐらいには読み込みたいと思います」「あの雀キチ達ここ来るの?あ、服借りるね」引き出しをゴソゴソしながら、「シャワー済ませておいて良かった」とT先輩は言った。まもなく、マットと牌を抱えた将棋部の先輩達がやって来た。

「M君はいつもついてるよなー(笑)」「なんでそんな牌を切るのに勝てるの?(笑)」「めくり合い絶対負ける(笑)」あまりにも定型的な評を下されていた我が麻雀であった。
「麻雀の本とかで勉強したの?」「いや殆ど読んだことないです。先輩方の後ろ見に依るものが大きいかと思います」「俺は君みたいな麻雀は断じて打たないんだけど(笑)」
当時は、麻雀はつまらないわけではないけど、特段面白いという印象も無かった。所詮運ゲーで、世間に流布している理屈は全部屁理屈に過ぎない。将棋にはとても及ばないと。

SさんとTさんは机に二人並んで、ひたすらレポートに取り組んでいるようだった。Tさんは理学部数学科唯一の女性だったらしいが(入学時にいたもう2人はとっくにドロップアウトしていたそうだ)、理学部物理学科のSさんにしょっちゅう尋ねている様子だった。Sさんは非常に成績優秀で授業料が免除されていると聞いていた。僕も一度、専門(←教養じゃない必修みたいなやつ)のレポートでSさんの教えを乞うたことがあった。
二人はひたすら手を動かしていた。こちらは牌をかき混ぜ、山を積み、サイコロを振り、ちょんちょんし、4枚毎集め、13枚揃ったらヨーイドンの、1000点30円の「ばくち」を延々と繰り返していた。空になったコンビニの弁当や紙パックのお茶や焼酎が床に散乱していた。掃除するのは自分なんだろうなと思った。Sさんは健全な大学生で夜は2時前には必ず休んでいた。対面の工学部の5回生がリーチをかけていたのに、私は気付かず無筋を切っていたらしく呆れられた。

「今日は何も食べないの?新歓の時みたく」「あの日は食べ過ぎました」「無限に飲んでもいたよね(笑)対面のOBのKさんが先に潰れたの初めて見たよ」「田舎者で夜の街なんて初めてだったから味も酔いも何も分からなかったんです」「いつ止めるのかと、ちょっと怖かったよ(笑)」こんなとりとめのない会話も今は懐かしい。

SさんとTさん以外の、この部屋にいる者は、大学の単位を取るだけで精一杯なんだろうし、将来はきっと、うだつの上がらないサラリーマンか何かにでもなって、今日と同じように、非生産的な営みに隙あらば溶け込む日々を送るも、別に無頼派のように破滅するわけでもなく、なんというか、とうの昔に廃れた自然主義文学ですら物語にしようのないほど、しょうもない人生を送ってゆくのだろう。

時計は4時を過ぎていた。先輩方は皆、床に横になっていた。軽く伸びをしたら、Tさんが隣にいると分かった。柔らかく滑らかな髪と、男物のシャツと短パンとのアンバランスさが可笑しい。「起こそうかと思ったんだけど、ずっと我慢してたんだよ」「すみません。完全に寝てたわけでもないんですが」「何かお返しして貰おうかな」「勝ち分の幾らかでもあげますか」「要らんよ、私んち金持ちだし」「まいりました。そもそも貸しも借りも何も無いと思いますが」「私、明日、というか今日は学校にどーしても行かんとならんのだよ。留年しちゃう」「はあ」「だから」「はい何ですか」「クソ鈍いね」「すみません」「M君は未だ若いから夜に強いんだね。みんなとっくにぐったりしてたのに」ここで、ずっと起きてたんですか?などと尋ねるほどには野暮ではなかった。しかし、それなら何故この部屋を出なかったのか。ここからさほど遠くもない実家通いだったはずだが。

「運転して家に帰るのは頭ぼーっとしてて危ないし、どうせろくに寝れないし、第一もう朝も近いのに行って帰っての二度手間だし」しばしの沈黙。女性のこの類の、ほのめかし、謎かけ、回答待ちは、古今東西必定なのだろうか。しっとりとした髪の毛に隠れて、Tさんの表情は見えない。「僕の部屋に泊まりたいということですか」「うん。大学に近いんでしょ。あー、あと絶対エロいことしないと約束してくれるなら」「怒りますよ」「あー約束しないの怪しいなー」「絶対しません。死んでもしません。さっさと行きますよ」
Sさんは机に突っ伏していた。先輩方とゴミが重なりあっている床の掃除をする気はもう起きなかった。

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