朝日と電信柱

走らずにはいられない(わけない)

 「私の人生で走ることは」と書き出すことに違和感を感じるほど「私の人生」と「走ること」とは重なっていて、ほとんど同一である。

 そう言うと「走ることが好きなんですね」と好意的に返してもらえることが多いのだが、私は苦笑して「いや、そういうわけでは」といつも注釈を加えなければならなくなる。

私は「走ること」が好きなわけではないのである。私が「私の人生」を手放しに好きだと言えないのと同様に。

走ることは呪いである。

ヘモグロビンな空

 恩師の前で一度こう言って注意されたことがあるのだが、あえて私は繰り返したい。「走ることは呪いなのだ」と。

 私の専門は長距離走で、本格的に練習を始めた小学生の時から現在まで、取り組んでいる期間は15年を越える。多感な思春期をまたいで社会人になってからも続いているのだから私の価値観は長距離走をベースに形成されたと言っても過言ではない。

 世間が長距離選手に抱く一般的イメージはもれなく私の性格を構成している。そう、私は真面目で一途なのだ。(ここ数年で最低限の冗談スキルは獲得した。なんたって私は長距離選手がほとんどそうであるように、努力家だから。……反応してほしい。ここは苦笑するところである)

 しかしだからといって走ることが好きだというわけではない。長い間走ってきて、気持ちがいいとか楽しいと思ったことは数えるほどしかない。春は体がだるくなりがちで、夏は暑さと疲労で死んでしまうような思いをし、秋は力を振り絞らねばならない試合が数多く開催され、冬は寒く手足の指が痛くなるような環境へ飛び出していかなければいけない。

 それでも私が走るのは、一度身につけた能力を失ってしまいたくないという強迫観念と、走ることを失った自分に価値を見いだせない自信の欠如、それから、走らないと陥るなんとも言えない不調、があるからだ。恩師は私が走らずにはいられないことを「習慣」だと言い換えてくれたが、動機づけを思い返せばそれは「呪い」と言わざるを得ないのである。

呪われた身で

 サ○トリアの王子は呪われてベッドの上から動けなくなるわけだが、私の呪いに行動の制限は伴わない。むしろ屋外へ繰り出さなければならない縛りを私に与える呪いである。私はその日その時の環境を否応なしに体感させられることになる。例えば、走り出す前に

 私は冷えて既に痛み出した足をシューズに入れ、紐を締め、踵をコンクリートの床に二度打ちつけて足の位置を調整した。時刻は19時を回るところでアパートの外通路を歩いていると夕食のいい匂いがする。にんにくの食欲をそそる香りが私を自室へ引き戻そうとする。深く息を吐き誘惑を頭から追い出す。首元、袖口の隙間から入り込む冷気をこれから走る60分間耐えるのだと思い、夜空の一点を睨む。こうすると少し気持ちが楽になる気がする。
 誰もいない駐車場で準備体操をしていると、風の音や自動車の走行音だけでなく、どこかで怒鳴るおじいさんの声や1階角に住む中国人一家が視聴するテレビの音声なども聞こえてくる。体を反らすと平板な夜空に星が見えて、北斗七星やオリオン座を見つける。星座の名前を覚えていることに少し鼻高くなったりする。
 乾いた空気につーんと張った水の匂い、氷の匂い、たぶん透明な埃の匂いがする。もしかしたら明日は雪が降るかもしれない。ここに燃料の燃える匂い、薄い黴臭さが加わると冬の匂いになる。冬の空気を吸うと、舌の先にほのかな酸味と舌の縁に溶けゆく甘みを感じる。冬に慣れるまでのごく短期間。

 走り出すと

 ふくらはぎの筋肉痛を感じながら歩きから走りへと移行していく。地面へ打ちつける左右の脚。衝撃を受け止める臀部。鈍い痛みを返してくるふくらはぎ。仕事中凝り固まった肩が腕振りの度に弛緩していく心地よさ。まだ冷えたままで痛い手足の指先。脇を走り過ぎる自動車のライトが目前で閃き一瞬間訪れる真っ暗な世界。
 嗅覚味覚が奥へ引っ込んで、疲労が熱を発する身体となって経験される。呼吸音が聴覚刺激の多くを占めて、走る路面と数十メートル先までの空間に視覚が絞り込まれていく。姿勢が崩れ始め疲れている部分、地面から衝撃を受けている足裏や膝、臀部の触覚、あるいは内的感覚が、制限された他の感覚の分まで意識の資源を喰い始める。身体が純粋な物質、体に近づいていく。

 走り終わると

 内側がかっかと燃えてエネルギーが外へ弾ける。指先は冷たいまま、しかし真皮が表皮を裏返そうとしているような感覚。呼吸が幾分荒れていて、1時間分冷えた外気に白い煙が広がる。呼気は熱く冷気を打ち負かし、白く実体を持って空の星座をしばし隠してしまう。数分で終わる興奮と万能感。
 整理体操の間に高揚は薄れ、五感がいつもの均衡を取り戻す。疲労感が感覚の全てに覆いかぶさってきて、重かったり痛かったりする体を私は部屋まで動かす。玄関を開けて冷え切った台所。夕飯を作っていなかったことに後悔する。

好きじゃないけど嫌いじゃないという意味

朝日と電信柱

 この画像、サムネイル画像は私の好きな早朝の景色である。やはり「始まり」というのは掛け値なしに素晴らしい。夕時は二番目に好きな時間だ。「終わり」というのもやはり捨てがたい。

 私の人生は今「始まり」でも「終わり」でもない。走ることとはその「始まり」でも「終わり」でもない部分を言うのだと思う。

 以下は広辞苑(1991)における「呪う」の記述抜粋である。

のろ-う【詛う・呪う】①怨みのある人に禍があるようにと神仏に祈る。②一般に、憎く思う者がよい運命をたどらないようにと念じる。③激しく恨み、悪く言う。

 誰が私を、どうして呪ったのか。

 過去の私が未来の私を、現在の私を呪ったのだ。何のために?

 おそらくは、私を好きになるために。

 走ることとはこの上なく現在を生きるということである。今、ここに、確かに、私は存在している、と感じることである。それはやはり私という人間にかけられた致死性の呪いである。好きでもなく嫌いでもない不安定な中で私は、人間は、進もうとするのではないか。死ぬまでこの呪いは解けそうにない。

光明

Twitter:@youwhitegarden
Facebook:https://www.facebook.com/youwhitegarden
HP:https://youwhitegarden.wixsite.com/create

※連載方式で毎日小説も投稿しています。よろしければ御覧下さい。


サポートいただければ十中八九泣いて喜びます!いつか私を誇ってもらえるよう頑張っていきます!