きみは短歌だった

【ネタバレ】映画『キャッツ』は私たちの映画だった

映画『キャッツ』を見てきました。
北米でのワールドプレミア後「犬の誕生以来、猫にとって最悪の出来事」「5段階評価でいうとタマネギ」という酷評の嵐で、日本公開前から話題騒然だった映画です。すごいなタマネギって。

『オペラ座の怪人』『エビータ』『ジーザス・クライスト=スーパースター』など超有名ミュージカルを産んだイギリスの作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーの代表作『キャッツ』は、今なおロンドンほか世界各地で上演されています。日本では劇団四季が上演。世界的にめちゃくちゃ人気の演目です。『キャッツ』を見たことはなくても、その音楽をそれと知らず耳にしたことがあると思います。

私はミュージカルが好きなので『キャッツ』もロンドンと日本と合わせて計3回くらい見ました。この超人気ミュージカル、なぜ映画になった途端にこんなに酷評なんだろう。予告を見た時点で、私は興味津々でした。なので、行ってきました。

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《注意》以下、ネタバレを含みます。嫌な方は引き返してください。あと、長文です。



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映画『キャッツ』は猫の物語ではない

これが賛否を分ける、最も重要なキーだと思います。これは自信を持って言えるのですが、この映画は「現実世界に存在するネコ科一般の生物について、人間が頑張って演じている物語」ではない、ということです。「実写にするなら、本物の猫や本物の猫のCGでやればよかったのに(それこそ実写映画「ライオンキング」みたいに)」という感想をSNSでよく目にしたのですが、それじゃ全然意味がない。「そこここに実在する猫たちの物語」として映画「キャッツ」を捉えた時点で、そりゃ「タマネギ」っていう評価になると思います。

舞台芸術は「こういう体(てい)で」が前提の表現です。基本的には、舞台という限られた場所で、その場所とは異なる場所をライブで表現するのが舞台芸術(※もちろん、例外もあります)なので、観客も「ああ、そういう体(てい)か」と理解しながら見ることになります。だから舞台「キャッツ」で猫耳・猫髭メイク・猫仕草で俳優が演じれば「あ、本物の猫という体(てい)なんだな」と、多くの観客がすんなり受け入れられます。
しかし映画は、もっと現実世界に近いものです。俳優が猫耳をつけていても「あ、本物の猫という体(てい)なんだな」になるはずがありません。そんなこと、製作者側がわからないはずがありません。

映画「キャッツ」は猫メイクをしていないことも話題になりました。舞台では目・鼻・特に口もとにかけて猫に寄せたメイクをしっかりとします。一方、映画版は人間の顔そのままです。それについても「人面猫」「シーマン」と酷評です。当然、映画版は猫メイクを「し忘れた」わけではありません。舞台版がベースとしてある以上、メイクについても「猫メイクにするか否か」という議論の上「しない」という判断がされたはずです。

映画の舞台はロンドン。しかも、ガイドブックの表紙を飾るようなロンドンど真ん中です。冒頭、ハイヒールを履き高級そうな服を着た人間が、車から降りて、なにやら蠢いている袋を放り捨てます。そこから出てくるのが、主役の子猫・ヴィクトリアです(舞台版のシラバブに近いキャラクターです)。新参のヴィクトリアを、警戒しながら取り囲む「猫」たち。

人間役の人間と、猫役の人間(猫の全身タイツを着るも、猫メイクなし)が出てくるわけですが、正直、どちらも人間に見えます普通の人間と、普通ではない人間に見えます。普通の人間が、普通じゃない人間を捨てるところからはじまる、強烈で象徴的な冒頭です。普通の人間を出さない演出も十分可能だったと思うのですが(舞台版はもちろん、普通の人間はでてきません)これはやはり「わざと」だと思うのです。

「猫=普通ではない人間」たちは自らをジェリクルキャッツと称し、誇り高く生きていますが、みな「普通の人間」を警戒し、犬を警戒して生きています。たとえば紳士猫・バストファージョーンズは高級クラブの会員という設定ですが、実際には高級クラブの裏のゴミ箱を漁り歩いているようです。「普通の人間」が主導権を握っている世界の、その隙間や裏にコミュニティを形成し、誇りを維持しながら生きている「普通ではない人間」たち。そして、この映画で唯一姿を見せる冒頭部の「普通の人間」とは、大都会の超高級エリア・ロンドン中心部に車で乗りつける、超リッチな人間です。

そうです、これは動物として実在するネコ科の生物の物語ではなく、世界の主導権を握ることのできない「私たちの物語」です。冒頭から強くそれを物語っていると思います。舞台にはある猫メイクがないこと、「普通の人間」を出すこと。リアルなロンドンの街並みを走り、踊る「猫」たちは全身タイツを見にまとい、人間のボディラインを隠すことなく示します。なまじ耳があり、尾があるからなおさら、人間らしさが異様に際立ちます。気持ち悪い人間であり、気持ち悪いほど人間です。

最初の方は、もう露悪的というほど、わざとこの「気持ち悪さ」を出しています。太ったおばさん猫・ジェニエニドッツのシーンは、確かに卒倒する人もいるでしょう。人面ネズミに人面ゴキブリが列をなしてケーキに登り、テーブルを歩きます。ジェニエニドッツは大股を開いてごろごろと転がり、ふてぶてしく横柄です。(この人面ネズミと人面ゴキブリについては改めて書きたいと思っています)猫たちは歌います、「ジェニエニドッツがネズミやゴキブリを躾けるから、清潔が保たれている」と。清潔? ゴキブリがケーキに登るときに隊列を乱さないことが?

映画の観客は強い嫌悪感を持つでしょう。しかし、こういう「コミュニティ特有のの常識」「なぜか慕われている人」という事象は往々にしてあることに気づきます。最後に長老猫・オールドデュトロノミー が言うように、この猫たちは「あなたに似ている」のです。

「世界に対して主導権を持つ人間」の影で、自らコミュニティを形成し、誇りを保ちながら生きている「主導権を持たない人間」たちですが、そのコミュニティにもやはりルールがあり、階層が発生します。最初はそれが全くわからない子猫のヴィクトリアも、中盤の舞踏会のシーンでは周囲と合わせて同じダンスを踊ってしまう自分に戸惑っています。

人間はもともと気持ち悪いもので、迫害されているから美しいということもありません。人間があつまればルールができ、階層が発生します。しかし個々を見れば、それぞれに過去があり、性格があり、時に恐ろしく、憎らしく、美しく、素敵だということが語られていきます。

そして、それらの「世界に対して主導権を持たない人間」たちが望むのは「天上にのぼり、幸せになって、生まれ変わる1人に選ばれること」。これは、私はどう考えても「最良の死」だと思うのですが、断定は避けるとして、とにかく、いくら誇りを持って暮らしていても「世界に対して主導権を持たない」現状から抜け出すことを是としているのです。そしてそれを選ぶ立場と、選ばれたい立場がある。階層です。


なんて厳しい映画なんだろう。
そして、こんなに挑戦的な映画を、挑戦的なまま完成させたことがすごいと思います。


あと10倍くらい書きたいことがあるのですが、とりあえずここまで。
一気に書いたので、乱文ご容赦ください。それでは。

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