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【自分史ノススメ】マイヒストリーとファミリーヒストリー

皆さんご無沙汰しております。お元気でしたか?
しばらくコラムを書くことなく時が過ぎていきました。

何をしていたかというと、ジョブカフェ事業に参画し、仕事に全力尽くしてきたというのと。
今年の初夏に母を看取り、自分の人生に大きな節目がやってきたからです。

私は実父を14歳の時に亡くしているので、40年余りの時を経て母が亡くなったのですが。
一人っ子ということもあり、自分と血が繋がっているのは娘2人だけなんやなと思うと胸に迫ってくるものがあります。

母が亡くなってからは、生まれて滋賀に来るまでのことを思い出すのが多くなりました。
あまりいい思い出はなかった堺の街ですが、郷里を離れて年を重ねると、たまに帰省すると「生き返った」気持ちになります。
決して滋賀県が嫌いな訳ではないんですが、どこか自然体ではない自分がいる。
母も晩年は「広島に帰りたい」が口癖になっていました。
当時は不思議に思っていましたが、今は母の気持ちがわかります。

私は小さい頃から母に遊んでもらった記憶があまりなく。
ひとりで遊んでるか、父か祖母が私の相手してるか、近所の子どもらと遊んでるかでした。
娘を大事にはしてるんですが、子供とどう付き合っていっていいかわからない。
それは自分が親の元で育ってきていない影響もあったんだろうなと思います。

私も幼稚園に入ってなかなか集団生活に馴染めず、小学校3年生の時にはいじめに遭い、毎日が辛かったのですが。
今思うと、母親との関係が影響していたんだろうなと感じます。

また、中学生の時に父が亡くなり、母はメンタル不安定になり家出を繰り返す状態となり、大学進学を諦めて早く社会に出るよう祖母と親類に諭されてきました。
しかし、自分で自分の方向性を見失ってしまい、自分の世界に閉じこもるようになりました。
ただ、それを表現する「詩」「マンガ」という手段があったことと、一緒に楽しめる仲間がいたことで救われたんだと思います。

叔父に言われるまま地方銀行の採用試験受けにいきましたが不採用。自分に行く気がなかったせいです。
それなりの会社で働いて早く結婚しろ的な流れに逆らって「手に職をつけて一生自分の食い扶持を得る仕事したい」という強い思いがあったのです。
これも父が亡くなり、母が迷走し、って状況での高校時代に「自分ひとりでも生きていかねば」と意識するようになったからです。
それが転じて今ではキャリアカウンセラーという仕事にたどり着きました。

今回、母の相続手続きをして除籍謄本を取り寄せたとき、本当に流転の人生を歩んできたのだと思いました。
幼い頃にヒロシマの原爆をその目に焼き付け、親の水商売の手伝いをしてきました。
祖父母の商売も表向きは堺・龍神の玉突き屋とカフェー(戦前)ではありましたが、その実態は水商売相手の高利貸しで、それは人に言えないいろいろなことがあったと思われます。
そんないろいろなことが本人の中で受け止められず、不眠に陥ってしまいました。
晩年は薬に頼り、認知症になり、病院で特養の空きを待っている間に弱っていきました。
今でも「これでよかったのか?」という思いはありますが、私が出来ないことを堺の父(母の再婚相手)がしてくれたので、本当に感謝の思いでいっぱいです。

自分の人生は親の人生のその先に生まれたもの。
親もまた祖父母の人生の上に重なって綴られる人生を送ってきている。
人によっては受け入れ難いかもしれませんが、自分の在り方を知るためには、ファミリーヒストリーを知ることが必要だと思います。

自分がキャリア支援を学び、自分の物語を自分の言葉で語ることが、自分の生き方を創ることなんだと思えるようになりました。
まずはファミリーヒストリーを綴った上にあるマイヒストリーを自分の物語として語れること。
その上で、自分史活動として多くの人にマイヒストリーを語る機会を作れたらいいなと考えています。

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