「気付く人」は損をするの?

誰がやってもいい。

でも、誰かがやらなければいけない。

そんな場合に、責任の所在というか役割をはっきりさせないで「気付いた人がやる」ルールにしてしまうと、「気付ける人」は地獄に向かってしまう。

気付かない人は、認識レベルにいつまでも上がってこない。

気付かない人にとって問題点として認識されないけれど、気付く人にとっては「解決しなくてはならない問題」として認識される。

この場合、問題解決の担当者を「気付ける人」にしてしまうと、「気付ける人」の作業量はとんでもない量になってしまう可能性がある。

それでいて、その作業は「誰がやってもいい」という責任の所在が曖昧なわけなので、「気付ける人の作業」と周りは認識しない。

暗黙の了解、みたいなモノが生まれる。

これは危険だ。

どうすればいいのだろう。

この文脈で語っていると「気付ける人」が偉くて「気付けない人」に問題がある、見たいに受け取られるかもしれない。

けれど、そういうことが言いたいのではない。

だって気付けない人はあらゆるコトに気付けないわけではなくて「反応するポイント」が違うだけだから。

その意味で「気付いた人がやる」ルールは理にかなっている一面もある。

しかし、「気付ける人」にだけ作業量が増えるのはどうにかしたい。

いや、どうにかしなくてもいいのであれば、それはそれで構わない。

「気付ける人」が「なんで自分だけ・・・」と思わないのであれば、問題は生じないと思う。

そうでないのであれば、なんとかしたい。

何を隠そう、我が家がそうだ。

家族によって「気になるポイント」は微妙にずれる。

「気付ける人」は「気付かない人」に要求するのだけど、「気付かない人」はその必要性も重要性も理解できない。

よって作業の質は「気付ける人」の水準に満たない場合がある。

結局「気付ける人」がやり直す。

そうすると「気付けない人」は「だったら最初からあなたがやればいい」と思い始める。

さて、どうすればいいのか。。。

向かう先はマニュアル化と指導、教育になるのかもしれない。

あとは「愛」か・・・

相手の気持ちを受け容れる。

相手の変化を待つ。

「自分ができていればそれでいい」は一人で生きる者の思考だ。「私がやればいいのでしょう」は自己犠牲的な精神だ。

集団で過ごす以上、それだけだと苦しい。

「誰がやってもいいこと」はその集団の誰もができるように仕組み化するのが得策。時間をかけてでも。

「その人じゃなきゃできないこと」に集中したい。できることなら。

「気付いた人がやる」のではなくて、「作業が必要なポイントを基準化する」とよいのかもしれない。目標の水準も併せて。

家で過ごしていて、そんなことを感じる。

そんな風に考えながら、今朝はトイレ掃除をした。

結構汚れていたのだけど、子供達は気にしていないみたい。妻は気付いていただろう。

別にどんな戦略でもいいのだけど、トイレが綺麗になると気持ちいい。部屋が綺麗になると気持ちいい。

それは、自ら創り出すことができると、子供にはわかって欲しい。

ご機嫌は自分で創り出せるのだ、と。

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