体が痛い

なんだかんだで体が痛い。

仕事で遊びで日常で、同じ姿勢が続くとだいたい体が痛くなる。

「何でこんな簡単なことで?」と情けなくなる。

人間も動物だ。

漢字で書けば「動く物」だ。

じっとしていたらダメなのだろう。

じっとしている仕様には作られていない。

待てよ。

そもそも誰が作った仕様だ?

神か?

自然か?

誰かの意図で、この人間の仕組みが出来上がっているのか?

この部分は信仰が絡んできたりするのだけど、私は特別な信仰はない。

信仰がないからこそ、こういう問いに答えが見出せない。

神への信仰があれば、「神は人をお造りになった」と思えるのだろうか?

まあいい。

その信仰があってもなくても、人間の起源を知っていても知らなくても、私の体の痛みとは何の関係もない。

具合が悪くなったり、何かしらの疾病状態になれば、1日の大半を寝て過ごすことになるだろう。歳をとってもそうなるかもしれない。

そんな日が続いたとしたら、体の痛みはどうなってしまうだろう?

今から憂鬱だ。

願わくば、体の動きが芳しくなくなって、1日の大半を寝て過ごす日々が続く前に一生を終えたいところだ。

死ぬことへの恐怖はさほど強くないが、痛みは本当に嫌だ。

そうはいっても、「痛み」を感じることだって人間が持つ大事なシステムである。

上手にお付き合いするしかない。

じっとしていたことで生まれている痛みなので、対処法は難しくない。

動かす。

闇雲に動かすのではなくて、「機能を感じ取りながら」動かす。

「気にかけてあげなくてごめんよ。」
「おお、こんな風に動けたのだね。」

と、体と対話しながら、動かす。奇妙かもしれないが、こういうの大事だと思っている。非科学的と思われるだろう?

非科学的なものが間違っているわけでもないのだ。

私にとって大切なのは、科学的か非科学的か、あっているのか間違っているのか、ではない。

私の気分がいいのかそうでないのか、なのだ。

もちろんマジョリティかマイノリティかもあまり関係がない。

ただし、社会の中で生きていく生き物であると自覚はしているので、社会から大きく逸れた行動は慎むようにはしている。

つまり、「自分の周辺にある集団」がどういう判断をするものかを観察し、社会の中で生きていられる範囲内で「自分の気分を大事に」生きている。

なんでもかんでも好き勝手に生きればいいわけではない。そこは弁えている。

さて、痛い部分は左に多い。体が偏っているからか?

何年も前から体の痛みは自分で解決するよう努めてきた。誰に委ねていいかわからないので。

誰に委ねるべきか判るものについては、頼ってきたのだけど、わからないことの方が多い。だから自分で何とかする。

この委ねるのと、自分で何とかするのバランスが崩れた人が多いような気がする。

崩れざるを得ない人も目にする。困ったものだ。

頼る部分と自分で何とかする部分、ご縁がある人には伝えているところ。

幸にして、痛みは減ってきている。気分がいい。まだ痛いけど。

たぶん「痛みを取る方法」とかを書けば、誰かのニーズを満たすのかもしれない。

けれど、私程度だと痛みの種類とか原因とかがわからなければ「方法」なんて思いつかないので、私は「痛みを取る方法」が書けない。

でも、自分の体は他人に委ねすぎずに大事にしようね、程度であれば言える。

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