うっかり傷つけられた

「もう枯れたね。昔の作品は良かったのに。」

ある時、彼は言った。

同じ作家の小説が好きで、その作家の新刊の長編小説について彼と話している時だった。

「枯れたね」の表現がたまらなく嫌で、懇意にさせてもらっていた関係だったけど、かなり明確なそして深い亀裂が入ったような気がした。

私はその作家の作品だけでなく、発言そのもの、文体含めて好きないわゆる「ファン」である。

その作家の全てを受け容れる、その作家の言動は絶対だ。そんなことは思わず、当然だけど相容れない部分、納得のできない部分はある。

私と違う人間なので当たり前だ。

私はその作家の書く文章や物語、発言、行動の中に「好き」を見いだしているだけ。

作品の中でも長編小説、短編集、エッセイ、対談、インタビュー記事、など多くの活字化された情報を私は持っていて、一度ならず何度も読み返している。

「ファン」なのだ。

彼もおそらくいくつかの長編小説を読んだことがあるのだと思う。「昔の作品は良かったのに」の言葉からそれが窺える。

物語を読み、どう感じるかはその人の自由だ。私が好きと感じるのだから、他の人も好きと感じなければならない。そんな風には思っていない。

ただ、それと同じように「誰かのネガティブな意見を同じように受け容れるつもりは私には微塵もない」のだ。

私は彼の感じた「枯れた」を受け容れない。

だいたい、その新刊の長編小説を私はまだ読んでいなかったのだ。(この出来事はもう2〜3年前の出来事なので、現状では「新刊」とは呼べないのだけど)

一度読んでつまらないと感じた作品も、時間が経って読み返してみると感じ方が違ったりするのはよくある。

物語は、書いた側ではなく読んだ側によって、その意味が決定されるものだと私は思っている。

つまらないと感じる物語は、その物語を読んだ時の状況がそうさせたのだろう。物語自体がそうさせた可能性はゼロではないが、編集者がついて出版社がコストをかけて世に送り出している以上、考えにくいのではないだろうか。

少なくともこの作家は長年にわたりヒット作品を生み出している。実績、実力は申し分ない。

中には大ヒットしないものもあった。作家による実験的な取り組みに位置づけられているそうなので、当たり外れはある程度できてしまう。

「枯れた」と読み取った彼のフィジカルおよびメンタルの状況が、その物語を「枯れた」作品にしたのだと私は思う。

彼がどう感じようとどうだっていいはずだし、むしろ「枯れた」と感じたフィジカルおよびメンタルの状況を憂う態度が私には必要だったのかもしれない。

しかし、実際は彼と私の関係に亀裂が生じたと感じた。私は拒絶したのだ。

「もう枯れたね。昔の作品は良かったのに」の発言からなんとも言えない見下した態度を感じた。

「物語が自分の満足の閾値に追いついていない。自分を満足させられないこの作家はもう終わった。」そんな態度だ。

違う。物語との向き合い方はそうじゃない。

物語はそれを読んでいる時の自分を表してくれる。

作品がつまらない時もあるかもしれないが、つまらない作品からも自分自身を発見できるのだ。

それなのに、物語から何も得られるものがないと言いきり、作者を見下す。それはおかしい。

好き嫌いはそれぞれにあるだろうし、私にも好みはある。誰かの好きが私は嫌いかもしれない。誰かの嫌いが私は好きかもしれない。

誰かの好きを馬鹿にしてはいけないのだ、と私は学んでいる。

私は彼に対して腹を立てた。彼は作品を見下しただけかもしれないが、その行為によって私の好きを傷つけたのだ。その傷が関係性の亀裂として現れたのだろう。

それから彼とは全く疎遠になった。この件の他にも疎遠になるきっかけがあり、亀裂は埋めようのない溝になった。

ようやくタイミングが訪れて、彼が「枯れた」と言った長編小説を読み始めている。

今のところ「枯れた」感じはしない。けれど、ここ数年の書き方とは異なる書き方のようにも感じる。実験的なあるいは挑戦的な試みだったのだと思う。

彼にはそれがくみ取れなかったのだろう。たぶんフィジカルのあるいはメンタルの問題を潜在的に抱えていたのではないだろうか?どうにもできない問題を。その点では同情的になる。

けれど、それと「私の好きを傷つける」とは全く別の事象だ。

疎遠になったし、もう連絡を取らないからいいのだけど。

長編小説を味わうように読むのは久しぶりだ。

その作家が表現しようとしているもの。それは普遍的であり個人的であるようなものだと思っている。

だからこの作家の作品は、読んでいると「自分の内面にある何かしらの問題」についてスポットライトが当たるような気がする。かといって物語の中に解決策が隠されていて私の問題が解決に向かうわけではないのだけど。

読んでいる私は、私自身の個人的な何かに向き合わされ、読み進めるうちに解決に向かうわけでもなく、ハッキリしない結末とともに物語が終わる。

解決策を求める人には全く向かない。

解決策をほしがる人は物語ではなく、何かしらの指南書でも開いてみると良いのかもしれない。

ただし、解決策を知るのと解決ができるのとは別の問題だ。

彼によって傷つけられた「私の好き」は、その作家の書く物語によって回復している。

かといって彼との関係は修復されないし、修復を望まない。もうこのままで構わない。

誰かの好きをうっかり傷つけないように、慎重にならないとダメだ。どちらかと言えば、私はうっかり傷つける方の人間だと自覚しているから。

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