「次会うときは骨になっちゃうからなあ」と言った。
「今、大病で入院したら、次会う時は骨だからな・・・」
ちょっと遠くを視るように、父が言っていた。
昨今の医療体制は遠からずそんな状況になっている。
家族であっても面会できないのはこの1年くらいで体験した。
それは命に関わる状況じゃなかったから、家族の面会を遮断したのかもしれない。(切迫された状況なら面会できたのかも)
私が入院をして手術を受けた5年前は、家族の面会は自由だった。
少なくとも私の家族は自由に来室して、しばらく話して、帰る、を好きな日に行えていた。
2021年6月の現状では、好きな時に家族を見舞うことができなくなっている。
父の言うように、重症だった場合「次に会う時は遺体」かもしれないし、火葬後の「骨」なのかもしれない。
新型ウイルス感染症への対応によって、様々なモノやコトが変えられてしまった。
例えばそれが常態化したら、新しい秩序として広く定着してしまったら、「人生の最期は安心できる病院で」といった選択はされるだろうか?されなくなるだろうか?
「終の棲家」なんて言われるが、なんだかんだ言って、人は自分の好きな場所で最期を向かえるのは困難だ。医師による死亡診断がないと「死」は認定されない。いつまでも心肺停止状態、だ。
ちょっと前に比べたら在宅医療は広がりつつあり、自宅で亡くなるケースも出てきてはいる。
もっと前に比べたら、むしろ入院して病院で亡くなるケースは少なかった?ちょっと調べてみないとわからない。
昭和の時代の映画やドラマでも「ご臨終です」という場面は病室が多かったような。
昭和初期とか明治期を描いた内容であれば、自宅とかが多かったかしら。
さし当たって、現代はやはり「病院で亡くなる」のが一般的だ。
しかも、最期の時間を家族と過ごしたい、みたいな願いをサポートしてくれる病院まである。
そういったところも、このウイルス騒ぎで、状況が変わっているのではないだろうか?
「苦しい時、もう死ぬかもっていう時」に家族と隔離されるのであれば、人は喜んで病院を選ぶだろうか?
「安全、安心な病院が一番」の考え方は変わるかもしれない。
静かに看取るのなら在宅がいい、と考える人だって増えてくるのではないか?
昔、酒を飲んでいる時に父と話したことがある。どんな最期を望むか、と。
父は「布団の上で死にたいな」と言っていた。
「死ぬならガンがいいな」とも言っていた。
心臓の病気で突然、あっという間に逝ってしまった母(父からしたら妻)のことがあるのだろう。
キッチンで「具合がおかしい」と言って倒れ込んだ母を、寝室まで父がおぶって移動していた。
その後でけいれんが始まり意識を失った母。
父は床に母を降ろし、救急隊に電話して心臓マッサージ(胸部圧迫)を始めることに。
それは救急隊の到着まで続いた。
その後、AEDやら点滴やらが自宅で施されたが、拍動は戻らなかった。私が到着したのは諸々の処置が施された後だったから聞いた話だ。
そんな経験をしていたら、心臓病は嫌だ、と思うことだろう。
父は自分の最後の瞬間を病院でイメージしていただろうか?
「次会う時は骨だからなあ」の言葉は、たぶん病院をイメージしていたのだと思う。
こんな時代になったから「最期は病院で」の考え方も変わっていくだろう。
人生の終わらせ方が変わっていく。
病気にならないような生き方の選択も大事だし、事故に巻き込まれないような選択もそう。
目の前のことだけでなくて、世界の抽象度を上げてモノゴトを見るようにしないとな、と考えさせられた父の一言だった。
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