山行記 その1燕岳〜白き女王は中年男に何を囁いたか〜
つづら折りの急な山道を、ゆっくりと下る。
標高が下がるとともに、沢の音が次第に大きくなる。今日のほんのささやかな旅も、もう終わりが近いことを知らされる。登り始めは山中に分け入る期待感で足取りも軽かったのに、急な水の流れの音が激しくなるほどに寂寥感さえ覚える。十時間の山行は、別れが惜しくなるほど満ちたりた経験だった。
燕岳は登山界では初級にグレードされる山だが、決して楽に登れるわけではない。よく整備がなされていて歩きにくいところが少なく、疲れをおぼえた頃に休憩できる箇所が多くあるので親切な山とは感じるが、北アルプス三大急登と称されるほどの急坂が登り始めから延々と続く。初級者向けだと思って甘く考えて登ると、そのハードさに悶えることになる。
樹林帯を抜けると雪の急坂。
盛夏であれば相当汗を絞られるだろうが、今は五月の終わり。残雪のなかの山行は、天気さえ良ければ暑くも寒くもなく快適そのもの。高度を上げて新しい景色が広がる度に、文字通り昇天しそうな気持ちになる。
まだ見ぬ光景に出逢いたい、それも山登りのひとつの目的。下界では絶対に見られない、写真では全てが伝わらない、大きさ、色、形、温度、空気の匂い。
頂はまだ先と思って、ただひたひたと目の前の雪道を登坂する。陽ざしは強いが、雪の上を抜ける風はひんやりとして心地良い。
雪道を抜け、燕山荘を過ぎると、山塊が次第に大きくなってくる。花崗岩で覆われた山頂の有様から、北アルプスの白き女王と例えられる燕岳。
女王陛下はこんな囁きをくれた。
良いときもあれば、悪いときもある。それが登山。
人生と一緒。
そうか。確かに今日はたまたま天気に恵まれいい登山になったけど、いつもそうはいかない。いい日もあれば、良くない日だってある。
もう一度山と向き合って、
そして自分と山に問いを続ける。
答えなどなくていい。
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