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友情のその先にあるもの



二年に一度くらいの頻度でお逢いしている女性がいる。以前にnoteで書いたこともあるけど、大切な友人で、大好きな親友だ。

短い間だったけど互いに会社に入ったばかりの頃、同業他社の一員だった彼女と、たまたま一緒にプロジェクトを進めることとなった。右も左も分からない中で、共に真っ暗な洞窟を探検するかのようにして手探りでゴールを探し、今から思えばそうたいした案件でもないのかもしれないが、一定の事柄を成し遂げた。もう20年以上前のことだ。


たくさんの思い出を共有しているから当時の昔話も楽しいし、業界の情報交換もとてもありがたいけれど、最近読んでいる本のこと、聴いている音楽や映画や芸術の話など今の彼女の興味を知ることが一番嬉しい。2年分くらいの経験を互いに話しまくるのは実に楽しい時間だ。


プロジェクトの打ち上げの夜、たった一晩だけ、僕たちは関係を持った。あの後きっちり10年間、彼女と会うことはなかった。彼女からも僕からも連絡することはなかった。その間それぞれに家庭を築き、会社員としてもポジションを駆け上がっていった。プロジェクトのこともあの晩のことも、互いに大切な記憶として抱えながら、滾る想いを平らに地ならしし、ようやく平熱で逢えるまでに要した時間が10年だった、ということなんだろう。そんな感覚も含めて、言葉には決してしないけれど、きっと同じ想いを抱いている彼女のことは、とても大事な存在だ。


いまだに彼女は50近い僕のことをくん付けで呼ぶ。この日本で今の僕をそう呼ぶ人は彼女だけだ。ちなみに僕は彼女の旧姓にさんをつけて呼ぶ。たまにファーストネームにちゃんをつけて茶化すこともあるが、そんなとき彼女は照れくさそうにふくれてやめてと言う。20代のころと変わらない表情。一気に時が遡る。あんまり可愛いから、会ったときには一回は試してみることにしている。彼女がそれを望んでいるかは分からないけど、僕がその時の表情を欲していることは気付いているみたいだ。


あの晩、全ての感情を僕に見せてくれた彼女のことを思い出すと、村上春樹のある小説に登場する女の子を想起する。そういえば彼女も村上作品のファンで、何度も作品についての議論はしてきたけど、そのことを言ったことはない。試しに伝えてみたら、彼女はどんな風に思うだろう。


初めて出会ってから随分長い時間が経過した。笑ったときの目尻の皺はチャームポイントではあるけれど、かつてはなかったもの。詳しく書くと怒られるけど手の甲や細くしなやかな指も、もはや年齢を重ねた女性のそれだ。もっとも僕の寂しくなった髪の毛の量に、彼女だって経過した時の長さを感じているだろう。年月のもたらすものは確かに残酷なのかもしれないけど、若く急ぎ過ごした時代よりも、今はもう少しゆっくりとそして穏やかな光りが降り注いでいるように思える。


若い頃は良かった、なんて簡単には言えない。今だって良いし、年齢を重ねればもっと良くなるかもしれない。だから「若い頃も」良かった、と言っておく。僕たちは今よりも若い頃出逢い、寝る間も惜しんで無茶苦茶に働いて、想いを分け合い、そして二人だけの打ち上げをして仕事の締めくくりを祝った。それから短からぬ年月を経て、僕たちは本当の友達になった。


あの晩のことがふたりにどんな意味をもたらしたのかは、まだもう少し人生を過ごさなければ分からないのだろう。でも今のところすこしも間違いだなんて思っていない。だってこうして僕たちの友情は続いている。これからの僕たちがまたセックスに至ることはもうないと信じている。それは、守るべき家庭と捨てがたいキャリアがふたりにはあることだけではなくて、この友情が他に替わるもののない、長い年月をかけて育ててきた互いにとって侵しがたい珠玉であるからにほかならない。


けれども、会話が途切れたのに視線が外せなかった時、その瞳の奥の光に、つい考えてしまうことがある。壊してはならない何かを二人で大事に運んでいるつもりでいて、実は徒に長い前戯を楽しんでいるだけなのだとしたら、そのとき僕たちは人生を恨むのだろうかと。







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