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恋をしに行く



安吾はいつだって僕の中でとても大事な存在だ。彼のように無頼と言われる人生を生きてみたいと思っていたけれど正反対の道を、それでいて似通った道を辿ってきた。逃げて、逃げて、安楽を求め、登坂を嫌い、そろりそろりと歩みを進めて、気付いたら安吾が亡くなった齢になっていた。どちらも駄目な人間だが、恋の重荷に苦しみ、肉欲の無情さに悩むのは、憧れているのか軽蔑しているのかそれさえ分からないが、同質な疼きをきっと抱え持っている所為と信じている。安吾の潔癖な駄目さ加減が、愛おしくもあり穢らわしくもある。

「あなたは謎々の名人ね」
「なぜ」
「愛されるばかりで、愛さない者は誰?信子。冷たくて、人を迷わす機械は誰?信子。永遠に真実を言わない人は誰?信子」


大人になったらもう恋に落ちることなどないと思っていた。五十を間近に迎えて恋情に溺れることなど絶対にないと思っていた。これだけ年齢を重ねても恋に落ちるときの音は、少年時代と変わらない。うろたえて、もてあまして、その音に恐れおののく。この気持ちが何であるかは分かっていても、何故この情動が生まれるのかは未だに分からない。それが分かれば、もうこんなに苦しむ必要はないのに。この気持ちが溶けてなくなるまで、どれだけの日々を過ごさなければならないのか。今日僕は、確かに狂ったのだった。


けれども、信子のあどけなさ、清楚、純潔、それは目覚める感じであった。それは、たしかに、花である。なんとまあ、美しい犯罪だろうかと谷村は思う。まるで、美しいこと自体が犯罪であるかのように思われる。この人は無貞操というのではない。たしかに先天的な犯罪者というべきだろう。もしかすると殺人くらいもーーその想念は氷のように美しかった。鬼とは違う。花自体が犯罪の意思なのだ。その外の何物でもない。


あれだけ気をつけていたのに、もう戻ることのできないところまで来てしまった。こうなることは分かっていたはずなのに、何故またこんなところに。行き場のないどうしようもない気持ちを抱えて、子供のように泣きたくなる。どこにも慰める者はいない。どこにも戒める者もいない。


信子に人を迷わす魔力があるなら、迷わされ、殺されたい、と谷村は思った。


ねえ、僕を殺してはくれないか。


それは信子の肉体だった。彼がそれまで想像し得たこともない異常な情熱をこめた肉体だった。


僕は確かに狂ったが、正しくもあった。君の姿を真っ直ぐに見据え、隅々まで点検し、初めて知る美しさに酔いしれる。花粉を貪る蜜蜂になる。そこには言葉はないのだが、如何にも正当に思える理由だけがそこにある。


信子はかすかに目をあけた。谷村は自ら意識するよりも、よほど臆病な遅鈍さで、信子に接吻した。彼はむしろ、その意欲の激しさのために、空虚であった。信子はその接吻に答え、目は苦悶にみちて、ひらかれた。両の拳がこめかみを放れて、大きく、高く、ゆるやかに虚空をうごいた。大きく虚空をだくように、そして、ゆるやかに、両腕が谷村の痩せた背にまわった。その腕には力はこもっていなかった。背をまいて、然し、背にふれていなかった。ただ何本かの指先が、盲目の指先の意思でなされる如くに、谷村の背の両隅を、緩慢に、然し、かなりの力をこめて、押し、動いた。


僕の肉体とは、情欲とそれを包む汚れた皮膚。君の魂は。それは分からない。


魂とは何物だろうか。そのようなものが、あるのだろうか。だが、何かが欲しい。肉欲ではない何かが。男女をつなぐ何かが。一つの紐が。

すべては爽やかで、みたされていた。然し、ひとつ、みたされていない。あるいは、多分魂とよばねばならぬ何かが。


何も身に纏わず、ベッドからすっと立ち上がる君の後ろ姿は、無感動な僕の心をはねのける。肉体の反応とはうらはらな、冷たい拒絶を強く感じる。君を得た気になっていたけど、君の心など永遠につかまえられないのだとしたら、恋の重荷とはなんという苦行だろう。




網掛けは坂口安吾「恋をしに行く」からの引用




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