詩人達の一行詩
丸山薫「帆 ランプ 鷗」から
詩人が、ただこの一行の中に籠めているものは膨大だ。ひとつには、心象。そして、あるいみでは(今風に言えば)「情報量」でもあるのだろう。
私の記憶のなかから、ひとつの歌が浮かび上がる。作曲家バルトークが、ハンガリー奥地へ分け入り、持参の蓄音機に吹込みした僻地の農村地帯の古謡のなかに
「大地は黒く、私のハンカチは白い」
という文句があって、私はこれを読んだとき、と胸を突かれた。もう二十年以上前の事だ。
その瞬間に広がった、人里離れたハンガリー奥地に鬱然と広がっている黒い大地と、彼女(農婦)の胸に灯した一輪の光が、ジョン・ミリのストロボのように私の内部に焼き付けられたのだった。
詩は以下のように続いた。
バルトークが譜面に写し取った旋律、曲調ともに、これほど暗鬱な歌はあるだろうか、というほどだった。だが、彼女のハンカチの白だけがこの世界のなかちいさく光っている。
原民喜に次のような詩がある。
この「真青な裸身の」から、最愛の妻を喪失(病死)した失意をうたった詩と読みとけるのかもしれない。だが、私は、そのような理解だけでは片手落ちだとかんじる。
ここにある何かは、空間の内部に広がっている不可視の膨大な領域であり、詩人は瞬間、絶望のなかにそれを隙見してしまったのだろう。
歌人葛原妙子もまた
とうたった。これは破調の歌である。
「大地は黒く」「真青な裸身」「黒峠」これらの言葉を通して、読者は何かを垣間見る事になるのかもしれない。
それは誰もが無意識裏に秘めているところの幼少の記憶ということになるのか、それとも、はるか彼方にあるなにか、なのか。