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「湯川書房」 回顧展

本年の1月21日から4月16日にかけて、神奈川県立近代美術館で湯川書房を振り返る催しがある。この記事を投稿したときは、もう始まっている。

筆者にとって、湯川書房はちょっと特別な愛着をもっている出版社だ。古書店を巡るとき、箱入りの文学関係の棚を探りながら一度は湯川書房の本がないか見渡している。それほど、この出版社の本は凝ったつくりの、美しい装丁の本が多いのだ。

私が書房の名を意識した最初のきっかけは、よく憶えているが、作家小川国夫の書籍をいろいろ物色しているときだった。ひところとくに七十年代の小説作品や随筆物で小川の本を探していた。その時に某古書店でたまさかに見つけたのが「花深き」と題された画文集だった。題もよかったが、一目見てまず装丁が特別だと思った。画伯平野遼氏の絵に目をみは った。

一見、乱雑に書き殴ったようにみえるが、それらを追ってゆくと、やがて細い神経質な線が人物の輪郭を結び、おぼろ気に姿や様子を喚起しているデッサンだ。今度は少し遠目にじっと眺めると、様々に描かれた人々の一瞬の印象が観者の心象と溶け合って、なにかあるひとつの心地をび醒ましてゆく。こんな絵に小川の、いつもながらの思索と学識に富んだ随筆が綴られていて、絵と文が織り成す繊細な作品だ。

「花深き」を入手して座右に据えたときには、この出版社の名が心に刻まれていた。その後、筆者が「香りの言葉」でも言及した塚本邦雄「翡翠逍遙」や、寿岳文章「和紙落葉抄」も見つけ、手にいれていった。後者は和紙に造詣の深かった翻訳家、文章氏による「和紙」に関する随筆を纏めた一冊である。この本を手にするまで寿岳文章といえばウィリアム・ブレイクの詩集を通してしか知らなかったのだ。本の装丁に実際の和紙を使っているのが、湯川書房ならではの趣向だ。筆者の所有している本は和紙が色あせて薄い黄に変色している。刊行から四十年以上経つが、手に取れば手触りの柔らかさがなんともいえない。

残念なことに筆者は関西在住ゆえ、展に足を運ぶのは難しいとおもっている。湯川書房は大阪を拠点にした出版社だった。本の終わりに「大阪市北区老松町三番地十一番」と住所が載っている。この地名ももう今はない。天神橋商店街に近く、いまは巨大なオフィスビルが乱立している一角だ。
紙質も装丁も度外視した本が氾濫している現在だが、私はそれをみだりに批判する気持ちはない。ただ、古書愛好者のひとりとしては、こんなふうにして本と出逢いながら様々な事を学んできた文化そのものが失われ、いや潰滅していくこの世相を想う。

2023年という時代に湯川書房をかえりみる催しが開かれることは、たぶんなにか大切な意味がある。ひと筋の希望を見て一年歩みたいとおもう年始だ。