武満徹、長田弘の沈黙のことばから
作曲家、武満徹(1930-1996)氏が残した言葉に、次のようなものがある。
私は、先日投稿した「五月の樹に触れて」という文を書いたとき、そこで詩人長田弘さんの二冊の作品集に言及したのだが、その内の「黙されたことば」(みすず書房 1997年刊)を読んでいて、考えさせられた事があった。
この本は、主にドビュッシーやフォーレ、バルトークやベートーヴェンなど西洋の作曲家達をテーマに書かれた詩を収めた作品集だった。
しかし氏は、冒頭に置かれた「はじめに…」からの四篇でまず「樹」や自然に眼差しが向けられ、そこで何度も沈黙という言葉を用いていたのだ。そしてそれは、続く本編の作曲家達への詩のなかで繰り返されてゆく。
今、特に深く印象に残った詩を一編取り上げてみたい。
ロシアの作曲家ショスタコーヴィチについて書かれた詩だ。ここで鍵になっているのが「沈黙」というものへの想念であると感じる。
私は「沈黙とは 語られなかった悲しみのことだ。」という箇所を読んだとき、この言葉に胸を突かれた。それはどうしてだったかと考えるのだ。…
※
武満徹が「音、沈黙と測りあえるほどに」と言った時、それではこの「沈黙」とは「静寂」とどう違うのだろう。
もし仮に、「音、静寂と測りあえるほどに」であっても、読者としてイメージできるところはある。だが、そうではなく、氏は確かに沈黙という語を用いている。
※
私が考えていたのは、「沈黙」とは決して静寂の状態ではないという事だ。語られなかった悲しみ…。
語られるべき、いや語られなければならなかった筈なのに、掻き消され、或いは奪われたり封じられてしまった声や叫び。「言葉が語ることのできないものがある。それは沈黙しか語ることができない。」…
本当は世界に充満している「沈黙」へ思いを馳せるとき、その内側で響いている巨大な音や言葉というものがあるのかもしれない。
私も詩作する身なのだが、「沈黙」という言葉を使おうとするとき、ここで学んだ事は忘れないようにしたいと考えて過ごしている。