なぜこの人が私なのか──永井哲学をつくる

私である(という他の人とはまったく違うあり方をした)人がいるとはどういうことだろうか。

主に永井均によって切り開かれ、探究が積み重ねられてきたひとつの問題圏がある。 その出発点にして核となる問いが冒頭の問いである。これはいったい何を問うている問いなのか、永井自身によってこれまで幾度となく説明が重ねられてきた(永井は、この問いの最短の説明として「自分とは何か──存在の孤独な祝祭」『哲学の密かな闘い』を、永井哲学の入門として『哲おじさんと学くん』を挙げている)。

この問いの意味するところが自然と理解できる人もいるだろうが、他方で、なかなかその真意を掴みかねる人も少なくないだろう。私自身がそうであった。本記事では、そのような人にも説得的であることを意図して、新たに説明を試みる。この記事に価値があるとすれば、それはその念入りな説得によるものだろう。

この記事の前半では、私である人が他人とはまったく違うあり方をしていることを論じる。後半では、そのことの独特の言えなさについて論じる。前半で言われたことが後半では言えないと否定されるため、言えているのか言えていないのか初めは混乱するかもしれないが、両者の関係が理解できたなら最初の問いの意味は十分に理解されたといえるだろう。

これからなされる議論は(後半で言われるような事情によって)特殊な一般論でもあらざるをえないのだが、端緒の問いは一般論であることこそを拒絶する問いである。それゆえ、まずは、誰にでも言われることではなく、あなたにだけ言われていることとして読んでいただく必要がある。


1 〈私〉は独在する

1.1 私であるというあり方

この記事には「なぜこの人が私なのか」というタイトルをつけた。これは、この人だけが私であるという奇妙なあり方をしていることに対する疑問ないし驚きの表明である。しかし、一見して何が奇妙なのかよくわからなくても不思議ではない。誰をとっても、その人にとってその人自身は私であるというあり方をしている。私にとってはこの人がそうであった。私であるというあり方が確かに奇妙であるとしても、私にとってこの人がそういうあり方をしているのは私がこの人であるからにすぎない。どの人もその当人にとって奇妙だ。そのように言うこともできるからだ。

だが、そう結論づける前に、私であるというあり方がどう奇妙なのかについて目を向けてみよう。率直に、私である人はそれ以外の人とはきわめて異なったあり方をしている。直接与えられるのは、私である人が見、私である人が聞き、思考し、想像し、思い出し、予期し、といったものばかりで、他の人のそれらは少しも直に経験されることがない。私にとって他人のそれらは、実はあったり実はなかったりしても変わらないあり方をしている。他人は意識を持たないモノなのではないかという懐疑論も、このような私と他人のあり方の違いの上に立てられたものだろう。

この懐疑論を論駁しうるのかはここでは問題ではなく、重要なのは、他人が問題なく存在しているとしても、ともあれ、私と他人にはそのような非対称性があるということである。というよりその非対称性こそが、一方は私であり一方は他人であるということの意味だろう。前段落で「直接与えられるのは、私である人が見、私である人が聞き、思考し、想像し、思い出し、予期し、といったものばかりで、他の人のそれらは少しも直に経験されることがない」と言ったが、むしろ、直接与えられる見えや聞こえや思考や……こそが私のそれである、という側面がある。たとえば、突如他人の左脚に痛みが感じられたとしても、他人も同じ箇所に痛みを感じているかにかかわらず、それは直接感じられた痛みであるという点において、私の痛みといえるだろう。逆に言えば、その状況でも、他人の感じたその﹅﹅痛みを(すなわち他人視点のそれとして)私が感じていることはありえない。どこまで行っても私に感じられた痛みは私視点の痛みだからだ。

おそらく、自他の識別はこのことに基づいてなされている。次のような状況を考えよう。突然あなたは左右に分裂して、LとRの二人に分かれたとする。気づけばLのほうがあなたであった。二人は完全にそっくりで、第三者からするとどちらがあなたか識別するのはかなり難しい。しかし、あなたにとって、自分がLと呼ばれていたかRと呼ばれていたか忘れることがあるとしても、ともかくLであるこの人が私であると識別することは容易であると思われる。なぜだろうか。Lの見えや聞こえや思考や……が直接与えられ、Rの見えや聞こえや思考や……は与えられていないということにおいて、Lこそが私であると判断しているからではないか。LとRのそれらやその他諸性質がほぼ完全にそっくりだったとしても、そもそもその二つを見渡す地点に立っていないならば、どちらが直接与えられているものかわからなくなることはまずない。

このとき、与えられたものの内容やその他の性質によってどちらが私かを(たとえば「直接見えているLの風景がこういう内容だからLは私だ」と)判断しているとは考えがたいだろう。何が与えられていようと、それが与えられていればその人が私である。たとえば、岸田総理の目から世界が見えて、岸田総理だけが殴られたら実際に痛いとすれば、岸田総理が私である、というように。

このような意味で、私は特権的なあり方をしている。別の言い方をすれば、世界は私に中心化されたあり方をしている、とも言える。

1.2 自他の識別

そのあり方を認めたとしても、やはり、私にとってはこの人が特権的なあり方をしている、というだけだろう。誰にとってもその人自身が特権的なあり方をしているはずだ、というのが1.1の冒頭で言われたことであった。だから皆、結局は同じあり方をしていて、その意味で私と他人に非対称性はないのだ、と。確かにそうも言える。

しかし、そのとき問題になるのは、自他の識別である。1.1で私は、自他の識別は自他の非対称性に基づいてなされると言った。結局私と他人に非対称性がないのだとすると、その「自他の非対称性」はその人にとっての自他の非対称性にすぎないことになる。問題は、それだけでは自他を識別できないように思われることにある。

どの人が私であるか識別する場面を考えよう。仮に世界にA、B、C、D、Eの五人がいて、そのうちDが私であるとする。Dが私であることを判別したいのだが、しかし、Dがただその人にとっての自他の非対称性を持っていたとしても、それはDが私である理由にはならない。他のA、B、C、Eもまったく同じようにその人にとっての自他の非対称性を持っているからだ。わかることは、DにとってDが自分自身だという誰にでも言えることまでである。どの人も持っているものをDも持っていたところで、そのことによってはDが私であるか他人であるかわかるはずもないだろう。もしDの、その人にとっての自他の非対称性を特別扱いする理由があるのだとすれば、そこにはその人にとっての自他の非対称性以上のものがなければならない。

私はDが私であることを識別できるとしたら、Dにその人にとっての自他の非対称性以上のものがあるとしたら、それは一体何でありえようか。1.1で言った、「LとRのそれらやその他諸性質がほぼ完全にそっくりだったとしても、そもそもその二つを見渡す地点に立っていないならば、どちらが直接与えられているものかわからなくなることはまずない」という以上のことを、私が識別に際して使っているようには思われない。もし識別がそのようにしてなされるのならば、Dには、誰もが持っている自他の非対称性ではない、Dしか持たない自他の非対称性があると考えるよりほかないのではないだろうか。いわば端的な自他の非対称性というものがあるのではないか。Dにとってそうであるにすぎないと言っても、それはその人にとっての自他の非対称性と変わらなくなり、識別できることの説明がつかない。私にとってそうであるにすぎないと言っても、それぞれの私の中からその私をどうやって識別したのかが今度は問われることになる。そして答えは同じである。

世界は端的に、Dに中心化されたあり方をしている。

1.3 いびつでのっぺりした世界像

とはいえ、A、B、C、Eもどの人が自分かを識別できているだろう以上、結局のところ皆同じでしかないのではないか。AもBもCもDもEも、その人にとっての自他の非対称性ではない、端的な自他の非対称性に基づいて自分を識別しているのではないのか。

これまでの議論が正しいとすれば、識別できているだろう以上、そうでしかありえない。というより、他人も自分自身を識別できていると私が捉えているならば、そう捉えている以上、他人にも端的な自他の非対称性があると私が捉えているのでしかありえない。他人の存在自体は疑いうるかもしれないが、問題なく存在している場合はそのようなあり方で存在しているのでなければならない。これはおかしなことではある。皆それぞれ端的な自他の非対称性を持っているのであれば、それはつまるところ、その人にとっての自他の非対称性でしかありえないのではないか。しかし、おかしいのはこれまでの議論ではなく、むしろ世界のあり方のほうだろう。

これはつまり、その人にとっては、その人にとってではない端的な自他の非対称性がある、ということだろう。もちろん、他の人から見ればその人に端的な自他の非対称性なんてない。他の人にとっては他の人自身が端的な自他の非対称性を持つからだ。だが、一旦その人の立場に立ってみれば、その人自身だけが端的な自他の非対称性を持つ、というふうに世界がなっているのだろう。少なくとも、他人を自他の識別ができるようなものとして捉えている限りにおいて、世界をそう捉えていざるをえない。もし他の人からもその人に、端的な自他の非対称性があれば、そのときはもはや他の人ではありえず、もしその人にとってもその人に、その人にとっての自他の非対称性しかないのであれば、やはり自他の識別は不可能になってしまうからだ。

こうした世界のあり方は、単純に各視点が相並んでいるように平板に捉えることができない。またここでは、どれか一つの視点がただ突出している(そういう立体的なあり方をしている)と言いたいわけでもない。世界は、どの視点からしても並び立つ諸視点の中で自身の視点だけが突出しているという、一つの図に描けないねじれたあり方をしていると言いたいのだ。このことは、最終的に唯一突出している視点の有無にかかわらず、まったくの一般論として言える。このねじれた世界像はそれ自体注目に値するだろう。

1.4 独在する〈私〉

1.3では、どの人もその人にとっては、その人にとってではない端的な自他の非対称性がある、ということが言われた。さて、それでは、私の持つ端的な自他の非対称性はそのような誰しもが持つ端的な自他の非対称性に尽きるのだろうか。

再び、どの人が私であるか識別する場面を考えよう。1.2では、仮にDが私であるような世界について考えた。だがそのような世界を想定するまでもなく、私は現にこの世界でどの人が私であるか識別している。今まさにこの文章を読んでいるこの人が私である。このとき、この人の、その人にとってではない端的な自他の非対称性に基づいてその識別はなされた、とひとまずは言える。しかし、なぜこの人のそれに基づいたのだろうか。言い換えれば、なぜすでにこの人の立場に立っているのだろうか。1.3で「一旦その人の立場に立ってみれば、その人自身だけが端的な自他の非対称性を持つ」と言ったが、考えてみると、この人だけが、あらためてその人の立場に立つまでもなく端的な自他の非対称性が成り立つようなあり方をしている。なぜかこの人の端的な自他の非対称性だけが本当に端的だ、と言ってもよい。

驚くべきことだが、世界は本当にこのようになっている。世界は、その人にとってという留保抜きに、この人に中心化されたあり方をしている。そうではないだろうか。これを、この人にとってそうであるにすぎない、と言うことはできない。その人にとっての端的な自他の非対称性しかないのであれば、そのことによっては、同じように自分を識別している人たちの中で一人だけ現に私である人をさらに識別できるはずがないからだ。また、私にとってそうであるにすぎない、と言うこともできない。それぞれの私の中からその私をさらに識別できている理由がここで問われていることだからだ。

百年前にも人はたくさんいたが、世界はそんなあり方をしていなかった。百年後もそんなあり方をしていないだろう。だが今は、この人がいながらも変わらず平板なあり方をしている、というふうにはなっていない。世界はなんと現にこの人から開けている! そのようなあり方をしている存在のことを〈私〉と呼ぶ。今この文章を読んでいるこの人が〈私〉である。このことがまずは実感を持って理解できるようになるまで、繰り返しここまでの議論を辿ってもらいたい。

2 語りえぬ〈私〉

2.1 〈私〉とは誰のことか

〈私〉の存在こそが、この問題圏の出発点にして核である。「私である(という他の人とはまったく違うあり方をした)人がいるとはどういうことか」とは、つまり「〈私〉が存在するとはどういうことか」と言い換えられる。ところでしかし、〈私〉とは一体誰のことだろうか。もちろん、1.4の最後で言ったように、今この文章を読んでいるこの人である。だが、考えてみるとこれはおかしくはないか。というか考えてみるまでもなくおかしい。〈私〉であるのは、どこかの時点でこの文章を読んでいるあなたではなく、今この文章を書いているこの人だからだ。そもそも私が実際に呼びかけているのはあなたというよりあなた達である。〈私〉が(それぞれの)他人に「あなたは実は〈私〉なんですよ」と語りかけることは何をしていることになるのか。読み手にとっては、もし本当にそうなのだとしても、他人が「私ではなくてあなたが〈私〉なのです」と語りかけてくるなんて酔狂としか思えないだろう。〈私〉という語の意味を誤解しているとさえ思える。

もちろん私はこれが有意味だと思っているからそうしたのであるが、どういうことかというと、読み手は端的には〈私〉ではないが、読み手自身にとっては〈私〉である、と捉えているからそうしたということである。1.4で「…考えてみると、この人だけが、あらためてその人の立場に立つまでもなく端的な自他の非対称性が成り立つようなあり方をしている」と言ったが、他人の立場に立ってしまえば確かにそうも言える。1.3で言われたこと(どの人もその人にとっては、その人にとってではない端的な自他の非対称性がある)はつまりそういうことであった。

だとすると、1で言われていた〈私〉は、その人にとっての〈私〉にすぎなかったことになる。書き手と読み手がいる問いの伝達の場面においては、この頽落は不可避である。しかし、1.3から1.4への展開において捉えられた〈私〉の存在はそんなものではなかったはずだ。そこで言われている以上のことを勝手に読み取ったのだとしても、〈私〉であることは誰にでも成り立つことではなく、その唯一例外的な実例を確かに捉えたはずである。このことを決して手放してはならない。そのためには、書き手と読み手がいる問いの伝達の場面であることをやめ、ただ自分が考えて自分に書いたものとして1を読むことが有効だろう。

では結局、〈私〉とは誰のことだろうか。書き手にとっては書き手自身であり、読み手にとっては読み手自身ではある。が、唯一現実にそうであるのは、「にとっては」抜きに、この人である。そのように言ってみることはできる。

2.2 〈私〉の累進構造

だが、そのように言ってみても結局は同じことだろう。同じことというのは、要するに、「唯一現実にそうであるのは、「にとっては」抜きに、この人である」と言ってみても、それとまったく同じことを結局は他人も言える、ということだ。

1.4で言われたことを再掲しよう。「驚くべきことだが、世界は本当にこのようになっている。世界は、その人にとってという留保抜きに、この人に中心化されたあり方をしている。そうではないだろうか。これを、この人にとってそうであるにすぎない、と言うことはできない。その人にとっての端的な自他の非対称性しかないのであれば、そのことによっては、同じように自分を識別している人たちの中でどれが私なのかをさらに識別できるはずがないからだ。また、私にとってそうであるにすぎない、と言うこともできない。それぞれの私の中からその私をさらに識別できている理由がここで問われていることだからだ。」驚くべきことだが、これとまったく同じことを他人も主張するだろう(現に永井均という他人が同様のことを主張している!)。書き手と読み手がいる問いの伝達の場面だろうと、ただ自分が考えて自分に書いたものだろうと、そこで言われたことはまったく一般に誰にとっても言えることでしかない。

だが、他人も字面上同じことを言えるとしても、1.4で言わんとしていたことは他人にも言えることでだけはなかったはずだ。他人がどういうあり方で存在しているのか本当のところはよくわからないが、どういうあり方で存在していたとしても、ともあれ他人ではある。そうである以上、この人と他の人は現にあり方がまったく違う、というのが捉えた事実であったはずだ。

というまさにそのことが他人の立場に立てば他人に成り立っているのだとすると、ここにはある構造が見て取れるだろう。現実に〈私〉であるのはこの人だが、他人も他人にとっては〈私〉であり、他人にとっての他人もまたその人にとっては〈私〉であり……というように、原初の「〈私〉ー 他人」の対立が、他人や他人にとっての他人やさらにその他人や……において反復して現れるという構造がある。このことを図で表せば、以下のようになる。

〈私〉⸻ 他人
      |
     〈私〉⸻ 他人
           |
          〈私〉……

〈私〉という型が、最上段から他人、その他人……へと累進していくこの構造を累進構造と呼ぶ。他人も〈私〉という型を共有するとはいえ、端的には〈私〉ではない。そういった、図で言う二段目以下において〈私〉という型を共有する存在のことを表すのに《私》という記法を導入しよう。たとえば、Dが〈私〉で、A、B、C、Eは《私》だ、というように使う。このこと(最上段と二段目以下ということ)自体にも累進構造は働くので、Eは《私》だが、Eにとっては、Eが〈私〉で、A、B、C、Dが《私》である、と言われることになる。

本筋からは外れるが、ここでひと言述べておけば、〈私〉と《私》に本質的なのは、現にそこから世界が開けていることと「にとって」の水準におけるその反復である。これまで(言葉を話す)人に限って議論を進めてきたが、その対象はもっと広い。少なくとも動物は含めてもよいだろう。

2.3 〈私〉の二重性

さて、累進構造を指摘することによって事態は何か進展しただろうか。すなわち、この私にだけ言えるはずことを言うことはできるようになっただろうか。この道具立てを使えば、事態は以下のように記述できる。

問いの伝達の場面では1はその人にとっての〈私〉のことしか言えていなかったとは、つまり、私は実は初めから《私》について語っていたということだ。しかし、1をただ自分が考えて自分に書いたものと読めば、それは〈私〉についてのこととして読むことができる。だが、そうは言ってもその〈私〉にも累進構造は働く。だから、1は現に〈私〉であるこの人について語ったものであると同時に、この人にとっての〈私〉、すなわち《私》について語ったものであることにもなる。

〈私〉について語ることには、累進構造のゆえに、つねにこの二重性がつきまとう。それゆえ、現に〈私〉であるこの人、と言っても、その〈私〉にもさらに二重(多重)の解釈が成り立つことになる。2.1の「〈私〉であることは誰にでも成り立つことではなく、その唯一例外的な実例を確かに捉えたはずである」も、2.2の「この人と他の人は現にあり方がまったく違う、というのが捉えた事実であったはずだ」も、前々段落の「この私にだけ言えるはずのこと」も、実は同様の二重性を持っていた。

こう整理されることで事態は劇的に進展した、とも言える。このことには、この私にだけ言えるはずことを現に言えてもいた、ということが示されているからだ。現実に最上段にいる〈私〉を捉えるのにも、この型は利用することができる。反対に、事態は絶望的だ、とも言える。「この私にだけ言えるはずことを現に言えてもいた」という、まさにそのことが現実の〈私〉でなくても言えることによって、なぜか今はそれに加えて存在してもいる〈私〉を語るための言葉はもはや存在しない、ということが示されているからだ。実際、その「なぜか今はそれに加えて存在してもいる〈私〉」も二重性を免れてはいない。

この、現実の〈私〉の存在が決定的に語れなくなる仕組みのもとで、「〈私〉が存在するとはどういうことか」という問いは──それでも問いとして──成立している。

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以上が「私である(という他の人とはまったく違うあり方をした)人がいるとはどういうことか」という問いの説明である。この解説自体、私である人がいるとはどういうことかを部分的に明らかにしてもいる。最初に言ったことを繰り返しておけば、1で肯定されたことと2で否定されたこととの関係が正確に理解できたなら、この問いの意味は十分に理解されたといえるだろう。

とはいえ、この文章はこの問いを掴めない人に最大限説得的であることを意図して書いたものである。そうでない人にとって、〈私〉とは誰のことを言っているのかが実感を持って掴めたなら、とりあえずはそれで十分だ。

この問題圏をさらに知りたいなら『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』は必読である。永井は、いきなりこの本から読まれることを勧めているが、また、哲学に慣れていない人にはそれへの導入として『存在と時間──哲学探究1』の第一部か『〈私〉の哲学をアップデートする』の序章を勧めている。

次点で『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学探究3』が重要だろう。あとは比較的近年のものから己の関心と勘に従って読んでもらえればよいと思う。

現在、web春秋では「カントの誤診──『純粋理性批判』を掘り崩す」が連載されている。これまで主に〈私〉の持続の問題に関連して徐々に展開されてきたカント論がここでは主題となっている。ウィトゲンシュタインと並んで、永井哲学の柱とも言うべきものである。偉大な哲学者であるカントに何をいまさらという話ではあるが、〈私〉の問題と結びつけられたカントは本当に面白い。連載はまだ始まったばかりである。ぜひ気軽に、じっくりと読んでみてほしい。

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