地雷はときに、花畑になる ~知識の多様性と、ゾーニングの話~

地雷の無い生涯を送って来ました

 
 実は私、地雷と断言できる表現は思いつく限りない。そりゃあ純愛で優しくイチャイチャしているほうが好みだけど。胸糞NTR同人誌を読んで良い点を1000字程度のレポにすれば3万円あげると言われれば、まあやってやらないこともない。そのお金でもっとたくさんの好みの同人誌を買えるからね。

 だからこそ、なのだろうか。普段なじみのない表現でも時々拝見することがある。それこそNTRとか、ロックバンドの曲とか、あるいはBL全般とか(ところでアストルフォきゅんってBLなの……?)。
 気に入ることもあるし、当然自分に向かないと感じることもある。でも、時に反対のものにふれることこそ、健全な知識の流動じゃないかなと思っている。好みのばかり集めていても、知識が固まってしまい、エコーチェンバーに陥ってしまう。視野が狭くなってしまってはもったいない。世界はこんなに広く、興味深いことばかりであるのに。多くのものを知るということは、それだけで幸せなことではないか。ならば、酸いも甘いも嚙み尽くそう、こう考えるわけだ。

 今までなんとなしに、あるいは理由をもって避けていたものでも、時間が経てば案外受け入れられるものだってある。人の心は一定でないからだ。逆もまた然り。もしかしたら、今まで地雷として扱っていたものが、実は心を満たす花畑になる可能性を秘めているのだ。現実世界では、地雷は地雷のままでしかなくて、花畑にするなんてとんでもなく大変なことなのに。

 多少ダメージは負うかもしれないが様々な表現に触れることはとても大切なことだと思うんだ。だからこそ、表現の自由って、大切なんだよ。自分の嫌いな表現を目に入らないようにしろって言うのは簡単だけど、その表現が好きな人のアクセスする機会を奪うことになるし、なにより自分が嫌いなものを見て、自分の考えが変わる可能性を奪ってしまうことになるから。どんなに説得されても聞く耳を持たず意固地になって過ごしていく人生、つまらないでしょう?

地雷を踏みたくない気持ちはわかるけど……

 ところがまあ、世の中皆が、私くらい寛容、あるいは無神経なわけではない。話題になったはてブの記事によれば、地雷を見てしまって1日体調が悪くなるような繊細な方だっているらしい。そのような人は、地雷を絶対踏みたくない。そう思う気持ちもよく分かる。ただ、だからといって自分の見たくない表現を隔離してほしい、という願いは叶えられるべきではない。

 もしそれが無制限に認められれば、ほとんどの表現が潰えてしまうことは想像に難くない。まあ実際のところは、「声の大きい強者」が隔離するもの、しないものを分けるという、法の下の平等もへったくれもない形態になるだろう。その地位を手に入れるためさらなる争いが起こるのもよろしくない。また、多くの人が、あるいは子どもが、○○な人たちが嫌がっているからゾーニングするべきだという意見もある。一見もっともらしいが、そもそもあらゆる表現は同様に扱われるべきであり、そこに貴賎はない。というか、多くの人が嫌いってどうやって決めるんだ。毎回国民投票するのか?そんなもん、時代や場所によって左右されすぎる、あまりに主観的なものだ。 内臓グチャグチャのグロ表現はほとんどの人が好きでないから規制しろといってるのは、昔の時代に、同性愛の表現は皆が不快になるから規制しろと声を上げていた人たちとなんら変わりない。そのような主観的な方法で、我々の人権が制限されるなんて、法ではなく、まぎれもない人の支配する世界だ。
 ああそうだ。そもそも、仮に多くの人に嫌われることが証明されたとて、表現に貴賎はないのだから残さないといけないという補強もしておこう。
 
 法律論的な話をすれば、表現が規制されても良い時というのは、表現を規制しなかったら、それ以上の人権侵害が起きるときのみだ。そしてそのような場合が認められるのはハードルが高い。少なくとも雀魂の広告が駅に貼られている程度では、個人の見たくないという幸福追求権を、表現の自由と経済活動の自由に対して上回ることはないと考えられる。
 地雷を踏みたくなかったら、他人に任せるのではなく、頑張って自衛しよう。検索力を磨けば、自分が見たくない表現を出さないようにするなんて、割と簡単なことだ。検索力、これこそ人生を幸福にするためのスキルだ!(熱い図書館情報学への勧誘)

誰かの地雷は、誰かの花畑。互いに寛容になろう

 結論を申せば、見たくない表現があったとしてもそれを消そうとはせずに、なるべく見ないようにして、もし眼に入ってもぐっと我慢して、互いに許容するほうが、皆にとって幸せだそして時には嫌いなものを覗いてみるのも悪くない。そういうことが言いたい。皆が好きなものに気軽にアクセスできる。それって、とっても素敵な多様性じゃない? 
 好ましくない表現をゾーニングすることは、どれが好ましくないかという覇権争いが必ず起きる。そこに、平等という文字はない。力こそすべて、修羅の世界だ。ならば、皆がちょっとずつ不満を背負ったとしても、ぐっとこらえて、あらゆる表現を認めておいたほうが、皆それなりに満足するんじゃあないかな。最大多数の最大幸福というやつだ(←この言葉大好き。俺の行動原理)。

 さあ、皆さんもいろいろな表現を認めて、いろいろなものに触れあってはいかがでしょうか。もしかしたら、そこには素敵な花畑が広がっているかもしれませんよ?


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