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【読書】橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』【基礎教養部】



はじめに

本書は基礎教養部の活動の一環として、イスツクエさんに紹介していただいた本である。イスツクエさんはnote記事の他に800字書評も書かれているので以下のリンクから参照されたい。

人から紹介された本ではあるが、ここでは思ったこと/思っていることを素直に書く。実を言うと、本書を読み始めた時点では、述べられている内容についてそこまでの期待をしていなかった。というのも、初めの方を読んだだけでは、本書に対し「心に浮かんだことを雑に綴ったエッセイ」程度の印象しか持てなかったからである。ある程度本書を読み込んでこの記事を書いている現在でも、人を選ぶというか、かなり読みにくい本だと思う(実際、自分は読みにくいと思った)。この読みにくさ、分かりにくさについては筆者も認めていて、しかも実はそれが恣意的なものであることも明言されている。

しかし本書を読み進めていくにつれて、意外にも「『美しい』が分かること」と、自分が常々抱いてきた問題意識とには共通点があることがわかってきた。それは「他者」や「偶然性」というキーワードによって特徴づけられる問題である。正直こんなところに繋がりがあるとは思っていなかったので、個人的にはかなり「ホットな」読書体験であった。

こうしたことを踏まえて、この記事では自分自身の問題意識と共通する部分を中心に、本書で述べられている筆者の主張を整理していきたい。なお、以下引用における太字強調は全て本記事の執筆者であるゆーろっぷによるものである。

美しい=合理的?

本書の論の「分かりにくさ」について

自分の問題意識と重なる部分を中心に、とは言ったものの、いきなり本題に入るにはいささか準備不足なので、まずは先ほど述べた本書の内容(記述)の「分かりにくさ」について少し触れておきたい。

前書きにも書かれていることなのだが、本書は客観的で万人に共有可能な「美しさ」について論じる本ではない。筆者が問題とする「美しい」は、各人が感じる主観的な「美しい」であり、あるいは人が「『美しい』と思ってしまうこと」それ自体である。つまり「主観」という前提条件なしに共有が難しいことを扱っているがゆえの分かりにくさがある。そのことについて、筆者も以下のように述べていることからも納得できる。

 第一章の私の話は、いささか分かりにくいかもしれません。(中略)私の話の分かりにくい最大の理由は、「自分なりに理解しているはずの“美しい”に対して、自分とは違う“他人の基準”を押しつけられているからです。
「美しいが分かる」派の人は、自分なりに「“美しい”とはこういうことだろう」と思っています。「美しいが分からない」派の人だって、同じように「“美しい”とはこういうことだ」と、自分なりの把握をしています。両者が共にそれぞれの理解なり把握をしていて、しかし、この二つの理解と把握の間には、いささかならぬずれがあります。つまり、一方にとって、他方の理解や把握は不要なのです。にもかかわらず、著者である私は、この二つを混在させています。だから、分かりが悪くなるのです。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.52

要するに、「美しい」という言葉に対する「主観的な理解」の仕方には個人間で差があるにも関わらず、筆者はこの差異を検討することを一旦保留として、「美しい」という概念を用いているのである(具体的にどういった差があるのかということについては後述する)。本書は「美しい」という漠とした概念について体系的な説明を与えるというよりは、論が進んでいく中で寄り道的に検討を加えていくというスタイルをとっており、これが本書を「分かりにくく」している要因の一つである。

さらに、こういった用法の混在は本書で頻繁に登場する「合理的」というワードについても言える。筆者は本論を始める際、何の前触れもなく唐突に「美しい=合理的」であると規定してしまい、その前提に基づいて議論を展開する。

「美しい」とは、「合理的な出来上がり方をしているものを見たり聴いたりした時に生まれる感動」です。私はそのように思い、そのように規定しますが、これは別に、私一人の勝手な思い決めではないでしょう。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.14

しかし後々になると、自分で言ったはずの「美しい=合理的」という取り決めを「嘘である」と言って自分で否定してしまう。

「合理的な出来上がり方をしているものは美しい」とか、「美しいものは合理的な出来上がり方をしている」というのは、嘘です。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.84

もちろんここでは文章の一部分だけしか引用していないため、前後の議論をしっかりと踏まえればこの2つの主張は矛盾していないことがわかる。しかし字面だけ見れば、他ならぬ自分自身の主張に対し「それは嘘である」と言っていることになるため、読者にとっては「何言ってんだ」となる内容であろう。実は、ここで使われている「合理的」という言葉はその意味や意図を正確に伝えるための説明及び文脈が必要で、にも関わらず一般的な「合理的」のイメージを想起してしまうと、上述の2つの引用の内容は完全に矛盾したものとしか受け取れない。なぜ筆者が「合理的」という言葉を持ち出したのか、そしてそれにどのような意味内容を乗せているのか、そういった背景にある本質をきちんと捉えなければならないのである。

ここでいう「合理的」とは

さて、ここではまず「合理的」という言葉について、先ほど述べた「説明・文脈」を筆者の文章の引用という形で与えよう(筆者は頻繁に「ゴキブリ」を持ち出してくるので、そういう文章を引っ張ってこざるを得ないことについてはご了承願いたい)。

(前略)「美しいもの」とは「合理的な出来上がり方をしているもの」で、その「合理的」の基準は、見たり聴いたりするこちらにあるものではなくて、見られたり聴かれたりするあちらにあるからです。
 ゴキブリは、ゴキブリの基準に従って合理的な機能美を有している──であるならば、「ゴキブリの立場」を理解しなければ、その「美しさ」は訪れない。「ゴキブリって、なんで気持ちが悪いのよ!」と言っても、ゴキブリは説明してくれません。(中略)
 ゴキブリはゴキブリなりに生きていて、自分自身の生き方に従って「合理的なフォルム」を獲得しているだけで、別に「俺は美しいだろう」と言っているわけではありません。ゴキブリには、自分の「美しさ」も説明出来ないし、自分のフォルムの「合理性」も説明出来ない──ただ、ゴキブリとして生きているだけです。(後略)

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.47

「美とは主観によるものだ」と、多くの人が信じています。ところがこの私は、その「主観」前にゴキブリを出してしまいます。「人の主観は、ゴキブリを“排除すべきもの”と規定しているが、その規定だけに従っていたら、ゴキブリ自身の持つ機能美は分からない。ゴキブリの機能美を理解するためには、“排除すべきもの”という人の主観を一時的に棚上げにしろ」と言っています。「ゴキブリはゴキブリなりに生きていて、ゴキブリ自身は理解していないだろうが、ゴキブリにはゴキブリなりの機能美が備わっているのだから、それを発見してやれ──それが“美しい”だ」と言っています。つまり、「ゴキブリという他人の基準を理解せよ」です。もっと平たく言えば、「他者を他者である”という理由だけで差別するな」です。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.53

 もって回ったことを言ってもしょうがないのではっきり言ってしまいますが、理性的で合理的で意志的で主体的であることが好きで、それゆえに「美しい」が分からない人というのは、「自分の都合だけ分かって、相手の都合が理解出来ない」という、いたって哀しい人なのです。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.48

つまり、「美しい=合理的」と言ったときの「合理的」は、こちら側(判断する側)の都合で考えたときの「合理的」ではなく、対象となる「あちら側」にとっての「合理的」という意味であり、さらにそうした「合理性」を理解するためには「相手の立場」に立たなければならない、ということまでをも含意する。また、このことを逆に考えれば、前の引用で出てきた「『美しいが分からない』派」とは、「相手(他者)のあり方」を理解することができない人であると言えよう。

「合理的」という言葉を持ち出したときにこのような説明をすぐには挟まないというのは、おそらくこの筆者独特の文章展開である。というか、前書きでも言及したように、筆者は意図的にこれをやっている節がある。前の引用箇所と被ってしまう部分も多いが、以下に該当する記述を引いてこよう。

「美しいが分かる」派の人は、自分なりに「“美しい”とはこういうことだろう」と思っています。「美しいが分からない」派の人だって、同じように「“美しい”とはこういうことだ」と、自分なりの把握をしています。両者が共にそれぞれの理解なり把握をしていて、しかし、この二つの理解と把握の間には、いささかならぬずれがあります。つまり、一方にとって、他方の理解や把握は不要なのです。にもかかわらず、著者である私は、この二つを混在させています。だから、分かりが悪くなるのです。つまり、「余分なことが読者の理解を妨げる」です。そしてしかも、この私は、それをあえてやっているのです。その理由は、第一章の終わりに書きました。つまり、「“美しい”とは、他者のありようを理解することだ」です。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.52

こうした記述を鑑みれば、本書の「理解しづらさ」をあえて出している理由として、「美しい」を理解するために必要な「他者のありようを理解する」ことを、「本書の論を理解すること」それ自体を通じて、読者にメタに伝えようとしているのだ、と言えるかもしれない(個人的には正直、それは原理的に可能なのだろうかという疑問もなくはないのだが)。

「制度的な美」と「主観的な美」

「合理的」には「こちら側にとっての合理」と「あちら側にとっての合理」があることをみた。同様に「美しい」という概念にもまた、そういった「2つの立場」というものがある。「こちら側」という「自分の都合」に対応するものが「制度的な美」であり、「あちら側」という「他者の立場」に対応するものが、この本で主題となっている「主観的な美」である。後者については次節で詳しく触れる。ここでは前者についての筆者の考えを見てみよう。

 美術品や宝飾品は、そもそも普通の生活には必要のないものです。それを「必要だ」と言えるのは、特別な力を持った者だけで、だからこそ、美術品や宝飾品は「王侯貴族のもの」としてスタートします。(中略)つまり、「美しいもの=美術品」を追い求めるのは、前の時代に権力を持っていた人間達の「特別」を追い求めるのとおんなじだということです。その前提があるから、「美しいもの=美術品」は価値が高いのです──そういう側面だってあるのです。
 つまり、「美しいものを追い求める」には、「失われた過去の時代の特権を求める」という側面もあるのだということです。その点で、「美しい」は制度です。「なにが美しいかは決まっている」とか、「美しいものは価値が高いに決まっている」というのには、「王様や貴族は、王様や貴族だからえらいに決まっている」というのと同じ側面だってあるのです。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.68

新しいから耳慣れない。馴染まない。それで人は、「古い時代の当然」をいとも簡単に選択してしまう。「美しい」が制度でありうるのなら、「美貌」とてまた、制度なのです。(中略)人にとって、「美貌」というのもまた、貴族的な社会特権なのでしょう。「特権があれば生きやすくなる」というのもまた、人間の思う「都合」の一つでしかありません

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.97

自分自身の主観から離れた「外部」(例えば金銭的な価格)に美の判断基準を置くことは「制度」としての「美しい」であり、それは「自分の都合」による美である。また、「制度」とはすなわち、それを持っている者=特権を持つ者という図式を成立させるための装置であり、そうして規定された「制度としての美」を求めるということは「より楽に生きるための特権」を求めることに他ならない。その追求の中に真の意味での「他者」は存在せず、あるのは「自分の都合」に基づいた利害関係だけである。

利害、他者、偶然性

かなり多くの引用をしてきたが、これで本書の主題となる「主観的な美しさ」、あるいは「利害から外れた美しさ」について触れるための最低限の土台は整った。ということで、まずは「美しい=合理的」がなぜ「嘘」になってしまうのかについて検討してみたい(後で述べるように、「美しい=合理的」は「結果論」であって、「嘘」であるというのは正確ではないのだが)。そのために、問題となる記述について、後の文章も合わせて改めて引用しよう。

「合理的な出来上がり方をしているものは美しい」とか、「美しいものは合理的な出来上がり方をしている」というのは、嘘です。なぜかと言えば、そこに「合理的」という言葉を登場させること自体が、「人間の都合」だからです。
「ゴキブリにはゴキブリなりの合理性がある。ゴキブリは、ゴキブリ自身の合理性に合致した機能美を持っている」などと言って、誰にそれが分かるんですか?(中略)ここに「合理性」という言葉を登場させるのは、人間の解釈です。「ゴキブリはゴキブリなりに合理的だ」とか、「ゴキブリにもゴキブリなりの機能美がある」と言うのは、そうでも言わなかったら、ゴキブリを「生き物」として認識出来ず、「ただひたすらその存在の抹消を考えるべきもの」になってしまうからです。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.84

要は「他者基準の合理性」を発見しようとすること(=相手の都合を理解しようとすること)すらも、結局は「人間の都合」でしかないということである。正直こういうタイプのメタ化の議論は僕自身はあまり好きではないのだが、一応納得できる主張ではあろう。

では結局「美しい」とは何なのか。上述の内容を踏まえれば、「人間の都合」が介在しないもの、つまり「利害から外れたもの」を「ただそれがあるがままに見た」ときに感じる感情であると言える。

「害」と「利」に大別して、その選択からはずれたものは、「関係ない」として放擲される。「関係がない」とされたものは、人間から見向きもされない。しかし、それに「関係ない」というレッテルを貼るのは人間の都合で、人間に「関係ない」とされたものでも、それなりのありように従って存在している。(中略)だから、利害とは関係のない目でそれを見る者もいる
 利害を超越した目で見られた時、人間の都合によって「存在しない」ということにされているものは、どのように見えるのか?
 それは、ただ「存在している」と見える。そして、利害とは関係なく「ただ存在しているだけのもの」を見た時、人は「美しい」と感じる──そうである方向へ進んで行く。
 それは、人の利害からはずれていて、利害でしか物事を見ることが出来ない──そうであることを当然にしている人間にとって、「利害からはずれていること」は、すなわち「美しい」と思えることなのです。
(中略)
だから私は、「人一般は“美しい”が分かるものである」と考えます。「“美しい”とは、“存在する他者”を容認し肯定してしまう言葉だ」と考えます。「存在する他者」が「合理的」であるかどうかなどは、どうでもいい詮索だと思っています。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』pp.87-88

もちろん、あえて下げるような言い方をしてしまえば、「美しい」とは「その程度の感情」でしかなく、主観的な「美しい」の発見は、直接的には全く「役に立たない」ものである。「役に立つ」とは「自分に都合がいい」ということであり、それと「美しい」の発見は原理的に関わりを持つことはあり得ない。では、ここまで一生懸命述べてきた「美しい」の役割とは一体何なのか。

上の引用にもある通り、それは「存在する他者」を発見し、肯定することである。確かに、こんなことをしても全く何の「役にも立たない」。むしろ一々美しさを「発見」してしまっては、自分にとっては色々な物事に心をかき乱されることになり、都合が悪くなるばかりであろう。しかし、これは同時に「他者への寛容さ」に繋がる極めて人間的な感性であると言える。こうした感情の一切を「自分の都合」だけを考えて放擲してしまうとしたら、その人にとって「他者」は存在していても「存在していない」ことと同じになってしまって、あるのは「自分の都合を理解する人」、つまり「自分自身」ただ一人になってしまうだろう。そうした「合理的な」生き方もあるかもしれないが、僕自身はそれを突き詰めていくことに対して疑問を抱いてしまうタイプの人間であるし、同様の感性を持っている人はおそらく読者の中にもいるのではないだろうか。

話を戻す。筆者は上述の内容を前提とした上で、「美しい」についてさらに「自然」という観点から検討を行う。先ほど述べたように、「美しい」を語る上で重要な「利害から外れている」という性質は「その存在が自然状態にある」と言い換えることができる。自然の風景を美しいと感じるのは、それが人間の利害関係から外れているが故なのだ。ただここで難しいのは、「自分の都合」という利害を前提とした生き物である人間にとっての「自然」である。「自然のまま生きろ」と言ったとしても、「現代で自然のままに自然の中で暮らす」というのはもはや「不自然」である。このかなり面倒くさい性質を持った人間に「自然」を宿らせるのは「まぐれ」、つまり「偶然性」そのものであると筆者は言う。

それでは、人間に「自然」を宿らせることは不可能なのでしょうか? そんなことはありません。人間はごくたまに、「なんにも考えていないゆえに到来してしまった合理的」という事態を実現させてしまうからです。俗に言う「まぐれ」です
(中略)
 果して人間は「自然体」が分からないのかというと、そんなことはありません。「まぐれ」を経験した人なら、そのことが分かります。「まぐれ」こそが、意識せずに達成されてしまった「自然体」状態だからです

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』pp.104-105

そして、こうした「自然体」の状態は得てして「合理的」である。ゆえに「美しい=合理的」は結果論でしかなく、「美しい」とは偶然による「自然状態の発露」に他ならないのである。

 プロというのは、その「まぐれ」を、自分の日常に取り込もうとして努力をするものなのです。だから、あまりにも合理的な「美しいフォーム」を見せるのですが、しかし、その「合理的」とは、人間の上に稀にしか訪れない「いとも自然な状態」なのです。だからこそそれを、人は「美しい」と思うのです。「合理的だから美しい」のではなく、「思惑を超えた自然だから美しい」なのです。
「美しい」と「合理的」をイコールにするのは結果論で、その「美しい」は、利害による思い込みを排した、ごくごく稀に訪れる「人の自然状態」でしかないのです

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.106

これまで述べてきたことを振り返ってみると、本書で問題とされている「『美しい』がわかる」ことの中には、そのイメージに反して多くの深遠な内容が含まれていることがわかる。実際、先ほどの議論のキーワードには「合理性」「利害」「偶然性」「自然状態」そして「他者」など、(特に現代の)思想を語る上で重要な概念が登場しており、それらが「美しい」という心の機敏を表現する言葉一つに詰まっていることを認識することができるだろう。自分自身、本書を読み始めた時点ではそんなところまで繋がっていくということは想像もしていたかったので、そういった意味で、本書は私に「美しい」との「偶然の出会い」を与えてくれるものであったと言えるかもしれない。

後書き

本記事では、著者の主張を理解するために必要な最低限の部分しか引用することができていないため、この記事では触れることができなかったもの(特に第三章の、枕草子・徒然草の中から読み取れる「美しい」に関する内容)も本書の中には多くある。ここまで読んでくれた方にとって、論の構成面での「分かりにくさ」は多少なりとも解消されているだろうから、ここで語りきれていない内容に興味を持った方はぜひ実際に本書を手に取ってみて欲しいと思う。軽い文体の本なので、読むこと自体にそれほど時間はかからないはずだ。

一方で、私はある程度書かれた内容を読み込んでこの記事を書いた訳だが、本書のようなエッセイ調の文章を自分の中で消化することの難しさも感じた。結果として、バラバラに述べられている内容の繋がりを把握することに苦労して、記事の大半を筆者の主張の整理に終始させてしまった。もちろん、それ自体は読書記録の観点から見れば有意義なものであると言えるだろうが、もう少しオリジナルな内容も入れておきたかったところである。本書や本記事の中心問題についてはこれからも多くの思考を積み重ねていくことになるだろうから、そういった中で徐々に自分自身の言葉で語れるようにしていきたいと思う。

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