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【読書】自由な言葉に触れる──外山滋比古『知的創造のヒント』【基礎教養部】

本記事は「ジェイラボ 基礎教養部」の活動の一環です。
簡潔な書評(800字書評)は以下のリンクからご覧ください。


本書の旧版は40年以上前に出たものであり、文庫版も内容に関してはそこまで変わってはいないそうなので、第一印象として抱いた「古い本」というイメージはあまり間違っていなかったようである。それでも本書を手に取ってみたのは、目次をチラリと見てその内容に興味をそそられたからに他ならない。本書に準えば、創造的な仕事には人を「酔わせる」効果があるが、本書も、度数は弱いながらもその作用があるように感じられた。外山氏は他にも多くの「言葉の酒」を世に出しており、その中で最も売れたものは『思考の整理学』(以下『整理学』と呼ぶ)であるが、わざわざマイナーなものを紹介しているのは、やはりこちらの方が「自分の口に合っていた」からと言うべきである(この辺りは好みの問題かもしれない。もちろん、『整理学』はあまりに有名すぎてそこまで面白味がないというのも実情ではある)。

さて、目次を見比べてもわかることだが、本書と『整理学』の内容はずいぶん被るところがある。違いとしては──批評が主目的でないので大雑把な印象ではあるが──『整理学』の方はより実践的な内容を重視しているのに対し、本書は比喩を用いた文章展開が主体で、外山氏の物事の捉え方というものをより反映しているように感じられる、ということだろうか。反面、より婉曲的でわかりにくいとも言えるのであるが、その側面(意味内容というより言語表現自体)を楽しむことも本書の読み方の1つであろうかと思う。そうした表現面について、私が面白いと思ったものを1つ紹介しよう。

出家、という風習がある。古文ではお馴染みだが、家庭生活との関係を断ち切って俗世を離れ、僧となって仏道を修行することである。現代ではこのような意味では使われないようだが、それはともかくとして、この「関係を断ち切る」という部分をもう少し敷衍して考えてみるとどうなるか。

話は変わるが、我々は「環境」に支配されている。環境というのは、別に自然環境のことではなく、一言には他者との関係性を意味する言葉である。ここでの「他者」も、他人に限らず、これまで人類が形成してきた文化、システムなど、広く「自分以外」と呼べるもの全てを指す。つまり、環境とは我々の行動を広い意味で制約する文脈の総体であり、人は常にその環境の中で生きている、ということになる。逆に、環境の中にあるからこそできるものは多い。環境に「支配」されていることは悪いことであるとは限らず、むしろその援助を受けているがために人として生活できているところがある。

しかしながら、そのような環境が、我々の自由で理想的な創造を妨げることも十分にありうる話である。そこで必要になるのが、諸々の他者との絆を意識的に断ち切ることであり、それがまさに、本書で外山氏が「出家」と呼んでいるものである。

この「出家」という概念は、本来の意味を超えて、相当に広い範囲に適用することができる。このような状態を、外山氏は「言葉の出家」と表現している。言語の抽象的で言葉遊び的な用法である。言い換えれば、言語が元の実務的な意味にとらわれず、「自由に」使われているのである。

本書の節々には、そのような自由な言葉の数々が見てとれる。私は学生という立場上、一般書であっても「〇〇入門」などのアカデミックな背景のある本を読むことが多いのだが、前述のような言語表現は、やはりそこではなかなか巡り合うことのできないものである。ある意味、私にとっての最大の「知的創造のヒント」は、これらの言葉、表現自体であったと言えるかもしれない。

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