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【読書】小泉信三『読書論』【基礎教養部】

前書き

本書はジェイラボ基礎教養部の活動の一環として、Takuma Kogawaさんに紹介していただいた本である。以下にKogawaさんの記事を掲載しておく。

また、先月分の記事(このときは私が本を紹介する役回りであった)でも、読書論及び教養論に関する本を扱っている。

実はこの2つの本は内容的にはほぼ対極の主張をしているため、図らずも同じ分野でかつ全く毛色の異なる本を連続して読むということとなった。せっかくなので2つの本を比べたりもしつつ、『読書論』を読んで感じたことなどを書いていきたい。

一般にいう「読書論」というテーマについて

『読書論』の筆者は一般論として、古典的名著を読むことを推奨している。該当箇所から少し引用しよう。

(前略)ここにはさしあたり一般方針だけを言う。一般方針として私は心がけて古典的名著を読むことを勧めたい。
古典といっても、それは敢て古い時代のものには限らない。洋語で古典 classic または古典的 classical という言葉はギリシア、ローマ的古代に属するものという意味にも、或いは承認されたる、第一流の標準的なものという意味にも用いられている。無論私が読むことを勧めるというのは、この第二の意味の古典である。
すべて文芸と学問とを問わず、それぞれの分野において、いくつかの流行浮沈を超越する標準的著作が認められてあるものである。私の指していうのはそれである。心がけてこういう著作を読めということは余りにあたりまえな、無用の忠告のようであるが、実はそうでない。人は意外に古典的名著を読まないのである。
(中略)けれども、右にいう通りの、取りつき憎い名著を読むことこそ大切なので、吾々が真に精神の栄養を感じ、思想の成育を自覚するのは、これらの古典的大著を読みおえたときであることは、少しでも体験あるもののひとしく首肯するところであろう。

小泉信三『読書論』pp.5-7

これを一読して感じたのは、やはり教養主義的な考え方が滲み出ているなということである。高度な大学教育を受けた著者により、1950年に刊行された本なのだから当然と言えば当然かもしれない。この時代、一定量の情報を伝達する媒体が本くらいしかないのだから、精神的な深みを得るために本は「読んで当然」であり、その前提の下で積極的に古典を読めという話になることは自然であろう。

しかし当然ながら、現代においてこの考え方をそのまま当てはめて実践するのはなかなか難しい話でもある。近年では他の情報メディアの発達により、そもそも社会生活で必要となる場面以外では本など読みすらしないという人が多数派になりつつあるように思う(例えば、大学にいると勉強熱心な人と多く知り合うが、そういった人たちでさえ自分の専門以外の本を読む習慣がある人は稀であると個人的には感じられる)。一言で言えば、「書物に無関心な人が増えた」ということになるだろうか。

前提が食い違ってしまえば、多くの人にとってその内容を受け入れるのは困難を伴うことになる。特に、ここでは「本を読むのは当然」というそもそもの前提から現代の読者と相容れない可能性は高いだろう。もちろん、本を読む意義としてはそういった自分にとって「違和感のある」内容を咀嚼して吸収するということが大きいのだが、それはそれとして、本書の内容は大多数にとって「よくわからないもの」となってしまっていそうではある。

上で触れた『読んでいない本について堂々と語る方法』との比較もしてみると、こちらは「本については読んでいなくとも語ることができる」という主張をしている点で、本を「読まない」人々に幾分かやさしくはありそうである。しかし、これは「本に無関心であっても良い」ということでは全くなく、個別の本の仔細な内容よりも他の本と取り結ぶ「関係」を理解することが重要であるということを意味する。ひょっとすると、ただ本を読むよりもこの「関係」を把握することの方が難易度が高い場合もあるだろう。

総じて、やはり読書という営為を論じた本というのは、本当に読書と無縁な人に薦めるには少々厳しいところはあるのかもしれない。かといってある程度読書をすれば、一般論としての読書論は自己の中に自然と確立してくるものだと思われるので、そうなってくると「読書論」の立ち位置というのがよくわからなくなってくる。私は最近読書という行いについてメタ的な視点から考えることが多かったが、それもそこそこに、これからはある程度の「実践」を積んでいくということが自分にとっては必要かなと思っている。

「役に立つ」ということについて

もう一つ、自分の今の問題意識と関連する本書の記述について触れてみようと思う。

本を読むこと(特に思想書のような一般に「難解」とされるような本を通読すること)の便益について語る際には、それが「役に立つかどうか」という点を一考することはごくごく自然な流れであり、本書にも以下のような(一部では有名な)記述がある。

先年私が慶応義塾長在任中、今日の同大学工学部が始めて藤原工業大学として創立せられ、私は一時その学長を兼任したことがある。時の学部長は工学博士谷村豊太郎氏であったが、識見ある同氏は、よく世間の実業家方面から申し出される、すぐ役に立つ人間を造ってもらいたいという註文に対し、すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ、と応酬して、同大学において基本的理論をしっかり教え込む方針を確立した。すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味において、すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。人を眼界広き思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促して、人類の運命に影響を与えてきた古典というものは、右にいう卑近の意味では、寧ろ役に立たない本であろう。しかしこの、すぐには役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められて来たのである。

小泉信三『読書論』p.12

「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本である」という主張(これは「長く役立つ本はすぐには役に立たない」ということを含意する)については深く同意する(というか当たり前すぎてわざわざ言う必要がないだろうとも思う)ところがあるが、それはなぜかを自分に問うてみると、自分の思考の傾向が抽象的なものに偏っているから、という理由づけが考えられそうである。すぐには役には立たないものを志向する、というのはすなわち普遍性のあるものを追求するということであり、それは要は抽象的概念を好むということである。

しかしながら、思考が抽象に偏っていると具体的な出力に繋げるまでの「パス」の長さが長くなってしまって、結果として瞬発力が出ないという影響(おそらくこれは実社会で生きる上では弊害だろう)も最近は感じている。個人的には、もう少し抽象と具体のバランスをとっていく、つまりもう少し「具体」の方を意識的に考えるようにしていきたいと思っている。これをさらに言い換えれば、「実践」の部分を疎かにしないようにする、と言えるだろうか。結局前の節と同じような結論に至るのだが、要はこの辺りが最近の個人的な問題意識ということになる。

後書き

正直に言うと、本書の内容については特に目新しいものはなかった(書かれた背景が違いすぎるのと、この本自体が古典化しているという面があるからかもしれない)。ただ読んでいく中で自分に引っかかった内容を見つめてみて、漠然と考えていることをきちんと言語化して整理するのに役立つ、という効用はあったと感じる。ただとりあえず、読書論についてはしばらくはいいかな、と思う笑。

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