見出し画像

2021.1.19 ちょっとそこまで墓買いに

「旦那様のお墓ということはつまり…」
霊園のこぎれいな事務所で、向かい合って座っている営業の中年男性がそう言いかけた時、あぁ来るなぁ、あの質問が。と少しだけ身構えた。
「奥様も、いずれはそのお墓に入られるということですね?」
やっぱり来たか。そりゃそうだ。墓を売る人間として当然の確認事項なんだから。大事なとこなんだから当たり前だよ。分かってる。分かっている。そう心の中で繰り返し唱えながらも、私は心臓の底の方がジリジリと焦げていくような感覚を止めることが出来ない。小さく一度だけ息を吐き出しながら答えた。
「まぁ、そういうことになりますよねぇ…」
曖昧に笑ってから、マスクを取って紙コップに入った緑茶を飲み干した。

霊園の見学を申し込んだのはこの正月だ。家に置いたままの遺骨をどうすべきかと悩んでいたが、必要なのはより具体的なインフォメーションだな、と思って勢いで見学に申し込んだのだ。
「今日はちょっと霞んでますけどね、晴れてたら淡路島まで見える日ぃもあるんですわ。あそこの高いビル見えるでしょ?あれハルカスですわ」
ゴルフ場にあるようなカートに乗って園内を案内しながら、営業の男性が教えてくれた。山の中腹にあるその霊園からは大阪の街が一望でき、空もずいぶん広い。まだ開園して10年程度と新しい霊園なので、並んだ墓石は一様にピカピカと光っている。鬱蒼と木が茂り、先祖代々の墓が並んだお寺の墓地や、重い扉を開いた先にある古い納骨堂などになじんだ私にとっては、あまり墓という感じがしない。公園墓地、という名前のとおり、通路や広場のような空間には芝生がひかれ、所々に机とベンチや、滑り台などの子供用の遊具が置かれている。春になれば、今は黄色い芝生も青々と色づくだろう。

特に信仰している宗教もない。義実家の墓は山田本人にだってあまりゆかりのない遠方の山奥にある。それなら近くにお参り出来るところがあった方がいいのかもな、小さな墓でも建てようか。ここまでの思考はいつも至ってスムーズで悪くない考えのように思える。だが問題はここから先だ。まるで踏み絵のような言葉が周りから、あるいは自分自身からも投げかけられる。

「あなたもいつか同じお墓に入るんですか?」

まぁ常識的に考えて墓とはそういうものだ。それに墓の話題なんて結局誰がどこに入るか、ということが大半を占める。ごく基本的な確認事項。けれど差し出された踏み絵を前に、私の心臓が底の方からジリジリと焼かれていく。さぁ、あなた、一生死んだ山田の嫁でいるんですか?いないんですか?
そんなものに答えはない。けれど、墓を持つことが何かしらの意思表明だと多くの人は思うだろう。愛とか希望だとか、忠誠だとか執着だとか、えっ、もしかして操とか?ちょっと勘弁してほしい。

霊園をぐるりと回って最後に着いた樹木葬エリアは、通常の墓地エリアとはずいぶんイメージが違い、石畳の通路や噴水が設置された西洋風の庭園のような場所だった。それぞれの墓石はA3サイズの紙くらいの大きさで、足下の低い場所に地面とほぼ平行並び、それぞれの墓の周辺には小さな花が植えられている。庭園内には季節になるとバラの花が沢山咲くらしい。
「墓石はどんなデザインでも良いんですか?」と聞くと、
「はい、どんなデザインでも大丈夫ですよ。彫刻代は全部代金に含まれてますんで」と男性が即座に答えた。当たり前だが、墓を買おうという人間がいれば墓を売る人間もいるわけで、世の中にはいろんな仕事があるもんだなぁとぼんやりと思う。

左右に墓石の並んだ芝生の通路をゆっくりと歩く。墓石に刻まれている文字や絵は様々で「○○家之墓」という文字や戒名がある墓はほとんど見当たらない。夫婦2人だけの名前が刻まれたもの、名字の違う複数人の名前が刻まれているもの、似顔絵が描かれていたり、「ありがとう」と刻まれているもの。特定の名前がなくメッセージだけが刻まれたもの。船の絵が描かれたお墓の人は船乗りだったのだろうか?ピカチューとサッカーボールがカラフルに描かれた墓は子どものお墓のようだった。思ったよりずっと自由なんだな、と思うと少しだけ気持ちは軽くなった。
顔を上げると、山の中腹にある霊園の中でも小高い丘の上にあるその場所からは、さっき見た時よりもさらに広く大阪の街が見渡せる。ちょうど丘の先端辺り置かれた木のベンチが、日の光に照らされていた。
暖かくなったら。
暖かくなったら、お弁当を作ってきて、あの芝生の上のベンチでピクニックをしようかな。電車に乗って少しだけ遠出して、墓参りついでにお弁当をひらく。子どもたちはコロコロとこの場所で走り回り、私は缶ビールでも飲もうかな。それでいいな。私は、それが欲しいな。

明日死んだらきっと同じ墓に入るが、30年後も生きていたらどうしたいのかは分からない。そんなことが分かる人間がいたらどうか丁寧に教えて欲しい。いつか来る終わりの日のためにでなく、近しくやってくる、暖かく瑞々しい1日のためになら、ここに墓を持ってもいい。死ぬためではなく、生きる続けるために。眠るためではなく、踊り続けるために。

山田が死んでしばらくした頃、夢に山田が出てきたことがある。夢の中で私と山田はいつも通りの変わらない様子で、何事もなかったように話をしていた。ふと私が「墓石にな、山田ワープのマーク掘ったるわ」と、山田がアイコンにしていたマークを掘ると言うと、山田は「マジか…!」と言って手をたたいて大爆笑していた。そしてヒーヒーを笑いをこらえながらひとこと付け加えた。
「分かった。あと”Keep on dancing”って掘っといて」
そこで、目が覚めた。起きてすぐコップ一杯の麦茶を飲み、目についたピンクの付箋に、マジックでkeep on dancingと書いた。まぁでも、これは、ただの夢の話だ。


「山田さん」
霊園見学からの帰り道、最寄り駅の改札を出たあたりで突然声をかけ掛けられて振り向くと、知り合いが立っていた。「お休みですか?」と聞かれたので答えようと口を開く。「はい、ちょっとそこまで・・・・」
ーーーーーー墓を買いに。
言いかけて言葉を飲み込む。相手を戸惑わせる言葉をわざわざ言う必要はないのだ。「ちょっとそこまで買い物に」そう言って手を振って別れた。

寒空の帰り道を一歩ずつ歩みながら、飲み込んだ言葉は一体どこに行くのだろうかと考える。食道を通って胃で消化され、大腸や小腸を通って体外に排出されればいいのに。もしくは血管を通って体の隅々に運ばれるとか?そんな風にスムーズに流れ去ってくれればありがたいが、どうもそうではないらしい。飲み込んだ言葉はときに澱のように固まって、静かにジリジリと心臓を焼く。

とはいえね、死んでしまえば心臓もなくなるのだ。飲み込んだ言葉も、雨風に洗われてきっと消えてしまうだろう。
では墓石はどうか?骨すらもやがて土に還り、多くが消えてしまっても、墓石はその姿を留めているだろうか。
”Keep On Dancing"
踊り続けた者がいた証として、誰かに、何かを囁くだろうか。

夢はただの夢だから、それに大金を払う必要はどこにもない。けれど夢に賭けない理由もまた、私には特に見つからない。

サポート嬉しいです。子供達とわっちゃわっちゃするのに使います。