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記憶はどこにあるか—僕は宇宙そのものなのか

 忘れてしまうこと、記憶から完全に忘却されてしまうこと、頭から身体からその記憶が一ミリものこらずに消えてしまうこと、は、ないと、僕は考える。もちろん、僕は脳科学の専門家ではないし、記憶にかんして専門に研究をつづけているというわけではない、が、それでも一人の人間として、過去はなくなっても、記憶はなくならない、なくなってはさみしすぎる、と、信じているしそうあってほしいと願っている。
 毎度毎度同じ考え方というか視点で、申し訳ないというか自分でもうんざりしているのだけれど、やっぱり僕は言葉から考える糸口を見つけてしまう。「記憶を忘れる」とは、はたしてひとはどういう状態をさすのか。たんにそれが、自分がその記憶を任意にとりだすことのできないということなのか、きれいさっぱり頭の中からも身体からも消え去ってしまって、それはつまり無というものになってしまうということをさすのか、このどちらでもないのか。そこらへんを区別して考えたり意識しているひとはあまりいないとは思うが、たしかに人間の思考が及ばない範囲のことではあり、これは実証的な方法によるしかないのかもしれない。が、あくまで言葉の領域と主観から見るならば、僕はつまり前者、その記憶を任意にとりだすことができない状態をさすのではないかと思う。だれにでも、思い出せなかった記憶が、友達との会話や日常の些細なことから、霧が払われるようにあきらかになる、という体験はしたことがあるだろう。これはつまり、外的要因により記憶がひきだされるというしくみであり、また人間はまったくの外的要因がないという状態にいることはできないから、このしくみをふくめて、この外的要因による記憶の再生ということもふくめて、人間の記憶の構造といえるのではないかと思う。
 では、外的要因によらなければ、人間は「忘れてしまった」記憶をとりだすことができないのかといえば、それはちがう。それは夢を例にとってみればよくわかる。人間は夢の中で、しばらく会っていなくて生活の中で思い出すこともなかったようなひとが、ふとある晩、自分といっしょに過ごしているといった夢をみることがある。これは外的要因によるものではなく、人間の内面から想起されたものと考える方が正しい(近い)のだと思う。人間の精神空間には、無意識の領域というものが、本人の自覚している以上に、空間的にも、時間的にも、広く、長く、存在している。そして、フロイトは、夢とは睡眠によって自我の力が弱まったときに、無意識の願望がイメージのかたちとなって意識にあらわれたものだとしている。つまり、人間の無意識の領域にあったものが、夢の中で、自我のとりだす力にたよらずに、ひとりでに躍り出てくるということである。これはまったくもって内的要因による記憶の再生だといっていい。これは余談ではあるが、僕は心の病気になったときに、自分では思いがけない行動や衝動におそわれることがあって、人間の心とは、宇宙より広く長いものだと直感的に感じたものだ。たしかに、物質的に質量をもたない心というものは、それがどこまでつづくのか目に見えないから、宇宙の果てが見えないのと同じように、無限につづくように思えるのもしかたがないし、というか無限というのは、目に見えないものをさすのではないかとも思う。
 では、「記憶を忘れる」とは、その記憶を任意にとりだすことができない状態をさすということはいいとしよう。では、その記憶とは、どこにあるのか、僕らの中のどこにかくれているのか。もちろん、無意識の領域もそうだろう。しかし、もっと具体的にというか物質的に?にどこにあるかといえば、それは僕らの脳細胞や手や足や胴体やらといった身体に貯蔵されているのではないか。
 そもそも、人間とは記憶を再生する際に、言葉によってそれを変形して思い出している。たった一秒前のことでも、それを言葉を介さずに想起することは不可能であり、つまり経験したイメージをそのままふたたび経験することはできない。かならず言葉を媒介し、言葉に圧縮され、言葉に変形された、記憶を、僕らは思い出している。これは言葉をもちいる人間ならではの特性であり、記憶とは言葉であるといってもいいだろう。けれども、記憶の中でも、そうではない例がある。それはつまり、感覚としての記憶である。たとえば、子供の頃に嗅いだ匂いを感じて、ふとそれがなんだったのかはわからないが、なんだか懐かしいような気持ちになったり、手のひらで感じた昔の恋人の感覚が、なぜかふいに思い出されたり。それらはつまり、言葉を用いずに、身体の感覚として憶えられているものであり、その感覚はどうやっても言葉にあらわすことはできないし、たとえあらわしたとしてもそれは感覚そのものを言葉に変換したものでしかない。この手の言葉にあらわすことができない記憶は、僕らの身体に刻みこまれている。そしてそれらはけっして言葉が介在してくることのないものであり、人間以外の言葉を用いない動物たちがもっている記憶とはこういうものなのだろう。はたして言葉を介在しないで思い出された過去の感覚を「記憶」と呼んでいいのか、それはここではくわしく述べることはしないが、こういった言葉とは無関係な記憶は、経験したそれと同じものであり、正確無比な記憶といっていいだろう。
 さて、人間の記憶とは、外的要因にも内的要因にも想起され得るものであり、そしてひとの心とは宇宙より広く長く無限であり、そして言葉を介在せずに思い出される感覚が身体には刻み込まれている、とここまでまとめてみる。と、記憶とは、そしてここにいる一人の人間としての僕とは、はたしてどこまでをさすのかという問題が浮かび上がってくる。たんにここにある一個の肉体をさして僕といえるのか、それとも僕が一つの人生の中で経験し得る生活そのものを僕とさすのか、それとも僕とは、はたして宇宙全体なのではないか。それはまだ僕の思考が及ぶことではないので書けないが、僕はあるときこんなことを考えたことがある。「もしこの宇宙に僕しか存在しなかったなら、完全に自他という分裂が存在しないのだから、僕は僕を僕と思うことはないし、自己という概念そのものがなくて、世界そのものと一体化し、つまり僕ではなく、宇宙しか存在しないのではないだろうか」

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