見出し画像

映画「茶飲友達」がとんでもなかった

とんでもない映画を観てしまったと思った。とんでもない映画って言うのは、いろいろと種類があるんだけど、なんというか、私にとって身近に心と頭をえぐってくる映画という意味でのとんでもなさ。伝わりますか?わかりにくいよね。ということで、ここから何がとんでもないのかを徒然と書いていこうと思います。

映画『茶飲友達』とは

『茶飲友達』チラシ

解説

「茶飲友達」は2013年に起きた実際の事件がもとになっています。
その事件というのが、高齢者向けの売春クラブが摘発された事件。新聞の3行広告に「茶飲友達募集」という言葉と電話番号を掲載し、お見合いをセッティングしたり、性的なサービスを斡旋していたのです。

外山文治監督はこの事件を知り、構想10年をかけて『茶飲友達』という作品を作り出しました。この作品は『カメラを止めるな!』を生み出したENBUシネマプロジェクトの10本目にあたります。出演者もWSメンバーからの参加者が多く、連帯感が作品全体を包んでいます。

ストーリー

妻に先立たれ孤独に暮らす男、時岡茂雄(渡辺哲)がある日ふと目にしたのは、新聞の三行広告に小さく書かれた「茶飲友達、募集」の文字。
その正体は、高齢者専門の売春クラブ「茶飲友達(ティー・フレンド)」だった。運営するのは、代表の佐々木マナ(岡本玲)とごく普通の若者たち。
彼らは65歳以上の「ティー・ガールズ」と名付けられたコールガールたちに仕事を斡旋し、ホテルへの送迎と集金を繰り返すビジネスを行なっていた。
マナはともに働くティー・ガールズや若者たちを “ファミリー”と呼び、それぞれ孤独や寂しさを抱えて生きる彼らにとって大事な存在となっていた。
ある日、一本の電話が鳴る。
それは高齢者施設に住む老人から「茶飲友達が欲しい」という救いを求める連絡であったー。

「茶飲友達」公式HPより

ちなみにここから先はネタバレ要素を含みますので、ご希望の方のみ続けてお読みください

なにがとんでもないのか

わたしと〇〇のズレ

わたし、この映画を観てからこの事件を調べたりしたんですが、そこでわたしと社会のズレを知りました。というのも、そもそもこの高齢者向け売春クラブに対する考え方が違ったのです。

とある記事に、この事件が「ひどいことですね」と記載されていました。つまり、悪者が高齢者から売春を斡旋してお金を巻き上げた構図が勝手に生まれていたんです。映画を観た後だからか、余計にズレを感じてしまいました。

というのも、この作品、その善と悪という当たり前(とされている)構造が揺らいでいます。買う側も売る側もそれぞれ理由があって、彼らの間では成立しているんです。関係が。だから、映画を観ている間、法的にはNGだけど、彼らにとっての幸せの選択はこれなんだな、と妙に納得していました。
そしてできるならばこのまま、この関係が続いていけばいいのに…とすら思ったのです。

家族とファミリー

また、売春クラブ代表のマナは娼婦や経営仲間たちを"ファミリー"と呼び、本当の家族のように接します。それは一見、愛情にあふれた素晴らしい人格者のようにも見えます。けれど現実、彼女は本当の家族とはうまくいっていません。ティーガールズと呼ばれる娼婦たちも、それぞれ事情を抱えています。それは経営側の若者たちも同じです。

わたし自身、血のつながりとは何なのかを考える機会が多く、マナの考え方に対して割と肯定的なところがあります。助け合うという姿勢は、この社会を生きていくうえで必要不可欠です。

「おかえり」と「ただいま」を繰り返しながら彼らは"弱者"同士、力を合わせて生き抜いていました。

途中までは…

楽園の崩壊

後半のとある事件からの流れが苦しかったです。ハリボテのセットがその仕事を終えて崩されていくかのように、ボロボロと音を立て関係が、楽園が、崩壊していきます。
この流れが…私にとっては地獄絵図でした。嘘だとわかっていた、夢のような前半の幸せ風な流れから一転の、それが一瞬で消え去る、とんでもない魔法をつかわれたかのような展開。

マナが理想としていた楽園は消え去り、現実という名の地獄がやってきました。絆でつながっていた人たちは、結局お金でしかつながっていなかった。捕まるとわかった途端、マナは途端に一人ぼっちになってしまいます。「親子だったらよかったのに」と強い絆でつながっていたはずの、ティーガールズ松子にも捨てられて。「あなたに出会わなければよかった」とすら言われてしまう…

みんなでワイワイと過ごしていた事務所が、一人また一人と去り、マナだけになったシーンが印象的だった。

そういえば、松子の闇と光がすごすぎて、混乱した。
折り合いをつけられている時とつけられなくなっている時の松子はまるで別人のようで。でも人ってこういうことだよな、と妙に納得してしまった。
言葉を今も探しているけど、松子の選択は違法かもしれないけど、彼にとっては正解だったと思う。

生きることも死ぬことも、法律で決められている世界って窮屈だなと思ったりもした。って、こんなこと書くと心配されそうだけど、そのくらい深く深く思考を巡らせたくなる作品だった。

ここからまた、とんでもないこと書きます

捕まった後、取り調べで「あなたは自分の寂しさを埋めるために、他人の孤独を利用した」と、マナは刑事に言われる。私はそのセリフが忘れられない。マナは"ファミリー"という言葉を使って、他人を巻き込んだ。困っている人を助けている、という彼女の正義をふりかざして、他人を巻き込み売春を斡旋した。

あぁそうか、そうだよね。利用してたんだよね。と思いながら、わが身を振り返った。え、これ、私もそうかもしれない、と。

でも待って、他人の孤独利用することあるよね?多かれ少なかれ、あるよね?わたしいまめちゃくちゃなこと言ってる気がするけど、ないって人いる??めちゃくちゃ偉そうに言っていたこの人だって、きっとそういうことしてきたでしょ?その孤独、埋めあって生きてきたでしょ??

となんかよくわからないけど、パーンとそこで、何が正しくて正しくないかとか、そういうことが分からなくなった。いや、わかるんだけど、白か黒かにするのってそんなに大事?グレーよくない?その決めつけ、何の権限でしてるの??

ルールって誰が決めたのだろう。いや、社会秩序とやらのために必要だってのは、理解した上で発言している。けれど、その、ルールという枠に入れなかった人は?ぎゅうぎゅうの満員電車に乗れなかった人はどうするんだろう。
これはわたしが常日頃考えていること。そして答えの出ない問い。きっとわたしが死ぬまで、或いは死んだ後も答えは出なさそうな問い。

高齢者専用の施設で売春クラブを利用した人は、規約違反で退所させられるらしい。売春クラブのティーガールズたちも職を失う。経営側の若者だって…この結末って、法律的には正しいけど、じゃあ、この人たちがこれからどうやって生きていったらいいんだ?それを助けてくれる人はいるのだろうかと想像する。

彼らはマナに出会わなければよかったのか?しかし出会っていなかったとしても生きていけていたのか?答えのない問がまた永遠と続く。

わたしにとって一番のホラーは、逮捕された後に母親が訪ねてきたこと。あんなにひどいこと言っておいて、刑務所に入ったら「家族なんだから」と平気で言えちゃう姿勢を、愛ととらえるのか、新しい地獄の始まりととらえるのかはあなた次第。と突然違う番組出しましたごめんなさい。

わたしにとっての唯一の希望は、金を奪って失踪した彼女。
走り続けたらいい、そのまま。自分の正しいと思うことを信じて。
ルールとか法律とか取っ払って、突き進んだっていいじゃないか。

おわりに

と、どばーっと書き連ねてみたんだけど、これだけじゃなくてもっと話したいことたくさんあるんだ。だから『茶飲友達』をご覧になった方は声をかけてください。たくさん話したい。

そして興味を持った方は是非観に行ってほしいです。おすすめです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?