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改訳「二つの心臓の大きな川」アーネスト・ヘミングウェイ


千田哲也さんにる出題(2017年10月5日(木) 0:11)

テクストは、アーネスト・ヘミングウェイ 、高見 浩 訳『われらの時代』第十五章「二つの心臓の大きな川 第二部」よりの抜粋
Ernest Hemingway /Big Two-Hearted River : Part Ⅱ IN OUR TIME

本稿を作成するにあたり、詩人の千田哲也さんから「ポエジーについて」というメールを発見する(2014/04/24 0:55)。ブックガイドが添えられ、本書に言及があったので、引用しておく。


・アーネスト・ヘミングウェイ「二つの心臓の大きな川」(『ヘミングウェイ全短編1、われらの時代』高見浩訳、新潮文庫)

ヘミングウェイ作品のなかでも傑作中の傑作。筋だけをいえば、ニック少年が湿地にキャンプを置き、鱒を釣って帰っていくというだけであるが、この作品を読むだけで、読者はポエジーを疑似体験できるのだ。川=(大きな)物語に近づき底ひに潜む、主題である鱒=ポエジーを釣り上げ、読み取るまで、物語世界の主人公と読み手とが重なって同時に行為にかかわり、労苦と痛みを共にし、達成し、虚無感に襲われ、それぞれの日常へ帰っていくという神話的調べを、なんら超越的な手続きをつかわず、ただrealという信仰によって記述した奇跡的な作品である。

二つの心臓の大きな川

結崎剛改訳


 なにか読むものでも持ってくればよかった。いまさらあんな湿地に入ってゆく気がしなくて、ただ本でも読んでいたいのだが、文字らしきものがないので見やった川下では、流れをまたぐように傾いている一本のヒマラヤ杉の向こうで川が湿地に注いでいて、見るだにあんなところに入ってゆきたくないという思いが湧いてくるし、それにしたって、水が脇の下まで達するような深場を渉るのはいやなものだが、そこで大きな鱒を釣り上げたところでどうせ引き上げることもままならないに決まっていて、木漏れ日がうっすら差しているだけの、暗くて流れの速い深場で釣るなんて悲しさここに極れり、と言ったところであろう、やめだやめだ、きょうはもうこれ以上流れをくだるなんてもっての外、とばかりに丸太にナイフを突き立て、袋をひきあげ、中に手を突っ込み、取り出した一匹の鱒の、しきりにくねる尾の近くをつかんで、そのへんに思いきり叩きつけてやると、魚はひくひく震えてから硬直したので、日陰になっている丸太のうえに横たえ、そうしてもう一匹のほうの鱒の首もまた同じようにして叩き折り、その隣に並べてみたらそれはもう美しい見事な二匹の鱒であることが知れ、さっさとその肛門から顎の先まで切り裂き、内臓にえらに舌までを一つなぎのまま取り出して綺麗にしているうちに、それらが二匹とも雄であるのが解るのは、なめらかでうるわしい灰白色の雄々たる白子があったからで、すべての臓器が朗らかに固まったまま一緒くたになって出てくるのを見届けると、岸に投げすて、すぐさま持っている大切なほうの肉を流れのなかで洗おうとするのだが、背中をうえにして水に漬けてやるとまるで生きた鱒のように見えるのは、未だ本来の色が薄れていないせいで、そういうことが知れるのは、この死魚を陸から水中にやった時であるというのは、この生き物の生きている姿が水中でこそよく見慣れているということで、よく洗った鱒を水から上げ、みずからもまた手を洗い、乾かしてから、死にだして間もない鮮らしい二匹の鱒を袋の中に入れて縛り終えると、ナイフを丸太にこすりつけて汚れを落としてからポケットにしまい、ロッドに力を込め、ずっしりと重い背嚢とともに立ち上がって、それから川の中に踏み込み、水しぶきをあげながら岸に向かい、堤を登り、まっすぐ森を突っ切って丘をめざし、キャンプに戻ろうとするのだったが、ふと突然背後をふりかえって木々の間にちらりと見える川の先の、あの湿地で釣りをする日は、この先いくらでも訪れるさ、と思うのであった。



出題者へのメール

20180108


千田さんの、まるで永遠の相から、ヘミングウェイ=ニックの鱒解体を見るかのような文章、一つの行為を、まるで初めて目の当たりにするかのように初々しく、つねに無限に繰り返されたものであるかのように当然に、そして最後のことであるかのようにねっとりと、書き上げるとき、力強く転回点となる一節はおそらくはやはり〈ニックはいまや戦士ではなく司祭であった〉。そうしてみずからの戦士としての仕事、司祭としての務めを終えた後、自身の狩場を顧みたとき、そこを〈カナンの地〉と観じ、きょうもまた日用の糧を獲らえ得たことに密かに感謝し、追放されたかに思われたおのれの身に救いを得る。ここには人間が自然のなかに分け入り、別なる命=鱒と格闘しそれを殺し、みずからの食用に解体するという、人間が絶えずくりかえしてきた営みへのリアルな観察と思索があって、そんなヘミングウェイが消去しているかに見えるものを浮き上がらせた、まさしく永遠の相から光をあてたような改訳。
鱒との格闘といえどもそれは鱒のみならず川=水、引いては天候や、みずからの体の疲れなど、あらゆる「自然」なるものとの闘いに外ならず、だからニックは川の深さや日差しの具合などをかんがみ、「気力=精神」に疲労を感ずると、戦闘をあきらめ、あらたに取るべき行為へと自身の向きを変える。じぶんの気力を殺ごうとするありとあらゆるものとの対決、そのとき肉体でさえ、むしろ真っ先に肉体こそが、こちらに牙を剝いてくることを描いている。気力、精神、心、魂と呼び名は色々であるが、「自然」のまえにそれらがいかに弱まりやすいかということを感じずにはいられない文章だ。
ところで、そのような疲労の刻にニックが「なにか読むものでも持ってくればよかった」と思うのは、読書によってみずからの衰えた精神を、書物という充填された精神力の塊に触れることよって再起を、われ知らずしようとしているからかもしれない……、いや、あるいはこれもまた、ヘミングウェイが「消去」したもの、このわたしに感じる余地を残す、黙示的文体の作用だろうか。



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