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板書の必要性を考える。板書って本当にいるの?

 今回は板書の必要性について考えていきたいと思います。みなさんは「板書」と聞いてどのようなイメージを抱くでしょうか。「きれいにまとめるもの・子どもの発言をまとめるもの」など様々な板書に対する考えが出てくることかと思います。私自身もそうです。しかし、ふと冷静になって考えてみると、本当に板書は必要なものなのかと考えるようになりました。それも、子ども同士の生の意見交換が行われているときに板書を行うことは非効率的に思えたのです。そこで今回は板書について自分の考えを述べていこうかと思います。

①板書とは

板書を国語辞典で調べてみると「黒板に書くこと。また、書かれたもの。」といたって当たり前の内容が出てきました。そりゃそうですよね。板書の歴史は,明治の導入以来から伝統的教授法として今もその姿をほとんど変えていないそうです。150年ほど、同じような形で今も残されているのです。まずはここに違和感を感じるわけです。いろいろなものが時代に沿って変化していく中で、板書の基本形態は大きな変化がない。板書も時代に沿ってどんどん変化していくべきものだと思います。そこを私なりに考えていこうというわけです。

②板書の良い面

 そもそも板書の役割りと兼ねて、どのようなメリットが存在するのかを考えていこうと思います。

〇子どもたちの思考を可視化する
 子どもたちの発言内容をまとめ、授業が活性化するように子どもたちの発言や考えをまとめていく役割があります。

〇説明の補助的な役割
 子どもの考えを前で示すことで、説明がわかりやすくなります。子どもが黒板に考えを書いて説明することも多々あります。

〇メモ的な役割
 学習のメモとしてノートを使用できます。復習など、自分がどんなことを考えていたのかを思い出すきっかけとなります。

〇視写・集中力の向上
 板書を写すというのはたくさんの動作が伴う行動です。その各部分のトレーニングとして一役買っている部分もあるかと思います。板書を写すことで教室に静かな空間が生まれることも事実です。

 もちろん、書ききれない内容は山ほどあります。板書が歴史上、長く残っているのにはそれなりの理由があることがわかります。板書の効果は非常に大きいと言えます。

③板書の課題

 さて、では板書の課題面はどうなのでしょうか。ここでも私が考える課題を少し述べていこうかなと思います。

〇見栄えだけを重視した板書
 とてもきれいな板書を見かけます。しかし、文字の量や色使いなど、授業の生のやりとりが本当にここに現れているのかと疑問に思うことがあります。教師の見栄えを意識しすぎる面もあるかと思います。

〇子どもの生の意見交流を記録できない
 子どもたちが授業を通して意見の交流を行います。そのスピード感に板書が追い付くはずがありません。教師はファシリテーター的な役割をしているのに、それに加えて子どもたちの意見をまとめることに限界があります。

〇物理的な制限が大きい
 黒板には大きさに限界があります。当たり前のことかもしれませんが、これが中々痛いところなのです。子どもたちの意見を掲示するにも、限界があります。また、チョークの交換など教師の仕事も小さな部分ですが増えていることも事実です。

④ここから考えることは・・・

 「その授業、本当に板書は必要か?」ということを自分に問い直してみることが大切だと思うのです。無理に板書をする必要はありません。ノートが日づけごとにきれいに進んでいく必要はないのです。ノートを書く日もあれば書かない日もある。それが当たり前で良いのではないでしょうか。板書をすること。それに固執する必要はないですし、1人1台端末の中で板書の代わりを担うツールはいくらでもあります。そのツールを参考にし、板書より効率の良い面はそちらに切り替えていく柔軟性が必要だと思うのです。
 しかし、その反面板書ならではの良さも残ります。その良い部分を残していけばいいのです。私は板書の意味は子ども同士の意見をつなぐことだと考えています。「そこに書いているけど、その意見ってさ・・・」なんて言葉が出た時に板書の良さを感じます。やはり、板書にも必要な部分はたくさんあるというわけです。

⑤終わりに

 これからの時代の変化に伴い、板書も大きく変わる必要があります。その中で変えるべきものと変えるべきではないものを自分なりに取捨選択できるようにしていきたいものです。それは板書というテーマ以外にもあてはまるもの。子どもたちがどうすれば生き生きと授業に参加できるか。その可能性を探っていきましょう。

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