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成長する教師に必要な力とは何か ~日本とアメリカの教員養成に関する違いに着目して~

①はじめに

 私たち教師は毎日当たり前のように授業を行っている。「それが教師の仕事でしょう」と言われればまさにその通りであるが、それほど教師にとって授業とはある種の「当たり前」のものであると捉えられている。小学校教師であれば、一日五コマから六コマほど、毎日のように授業を行うし、中学校や高等学校でも担当する教科を学級・学年は変われど、どこかで何かしらの授業を行う。「教師=授業で勝負」なんていう言葉を若い頃は何度も先輩から聞かされたこともある。
しかし、今一度考えてほしい。それは「そんな当たり前の中に、教師は自身を成長させるための手段を持ち得ているのか」という点である。この「当たり前」にこそ問題が生じてくるのではないだろうか。例えばあなたが毎日決まった時間に自転車に乗って最寄りの駅まで向かうとする。最初は「どのルートからいこうか。一番時間がかからない方法はどれか。」試行錯誤を繰り返す。ある程度の時間が経ち自分自身の最適ルートを見つければ、あとは何年も何十年もその決められた道筋の決まったルートを進む。それがその人にとっての「当たり前」であるから当然である。これを教師の世界に置き換えてみる。確かに若手の頃は「子どもたちにどのような指導をするのが良いのか。どうすれば分かりやすく授業ができるだろうか。」と何度も考え、悩み、苦悩しながら授業を行う。だが、三年も経てばある程度の「型」が出来上がり、そしてそれが教師にとっての当たり前となり、変化することはなくその自分自身の正解のもとで授業を行う。時代が変われど、子どもが変われど、自分自身の当たり前で授業は進んでいく。授業における当たり前とは中々に恐ろしいものである。そこに教師としての成長は存在しない。では改めて問うが、「教師として成長する上で必要なことは何だろうか。現代の教師が身につけるべき資質・能力とは何だろうか。」当たり前に淘汰されることなく、日々成長する理想の教師について考えてみたい。

②アメリカの教員養成

 この問題を考えるにあたり、まずは国外の教員養成段階にまで遡って考えてみよう。日本の教員養成では主に大学で必要な授業を履修し、教員免許状を取得した上で採用試験にのぞみ、教師となる流れが一般的である。しかし、アメリカではedTPA(教員資格能力査定)という制度を取り、自分の大学での学びを一つのパッケージ化して団体に申請するという制度を採用している。これはある種、大学の養成課程を信用していないというアメリカらしい制度とも言える。教師になった後は自己責任として、自ら学び、自ら研修に参加していく。「教師の成長」における捉え方が「与えられるものではなく、自ら学び得るもの」というように言い換えることもできるのではないだろうか。では、教師になった後はどうなるのか。そんな疑問を抱く人もいるだろう。日本では「校内研修」と言われるように学習指導要領のもとで教育課題の解決や教師の職能成長を目指して学校全体で研究・研修活動が行われるケースが多い。そのポイントは「いかに学習指導要領の内容を効率的に教えるのか。」ということである。しかし、アメリカでは「Lesson Study」という研修方法を用いる。これは一言で言えば「子どもの学びの事実から教師の指導について考える。」ということであり、予め設定されている目標に縛られすぎることなく、子どもの事実から教材・教授法まであらゆることをアセスメントで得た子どもの事実をもとに展開していく。このような流れで教師の日常における授業改善を図っていくのである。とある学校ではそのサイクルを「①Study②Plan③Teach④Reflect」と表し、サイクルを回すことで授業改善へとつなげている。もちろんその中で教師同士が葛藤することもあり、その過程の中で子どもたちに適したカリキュラムや教材づくりが行われていく。ある程度学習指導要領で縛られている日本では考えられにくい発想であり、日本型の校内研修と大きくかけ離れているが、「子どもの事実に即した授業改善」という視点で見た時に、あなたはどのように感じるだろうか。

③良い授業と悪い授業

 さらに深堀して考えてみよう。あなたは研究の目的をどこに設定するだろうか。「良い授業」「悪い授業」という2つの尺度で測るのであれば、今の日本で行われているような指導案に莫大な時間を費やし、指導案内で示される「正解」にたどり着くかどうかを判断し評価するような授業展開を理想とするだろう。いわば「仮説を立て、それがどうだったのか検証を行う」というような型の授業である。確かにある意味、予定調和の中で行われやすく、「できたかできていないか」というような二項対立の考えからは授業の評価がしやすい。しかし、いい授業を目指すことが研究の目的なのだろうか。果たして教師から見ていい授業は子どもたちにとってのいい授業なのだろうか。もし、「出来事の意味の多様な解釈」を中心課題に即した校内研修が展開されると教師はどのように変化するだろうか。もちろん、教師にとってのいい授業を理想とすれば疑問を抱くことにつながるかもしれない。学習指導要領に示される正解に効率よく達していることを美学とするのであれば、その反対になっているのかもしれない。ただ、子どもとは本来予測不可能な存在であるし、授業者の指導に対して「どこで学びが成立し、そしてどこでつまずいたのか」ということこそ、本来の研修における議論対象になるのではないだろか。子どもの事実を無くして研究は進展しない。そう考えると、研究には「出来事の意味の多様な解釈」が求められるのではないだろうか。
これまで、アメリカと日本の体制の違いについて述べてきたが、一つのキーワードとして「子どもの学びの事実」を挙げることができる。教師の成長に関する資質・能力の一つが子どもの学びを正確に読み取ることであると考えるならば、その可能性について言及していきたい。
 「子どもの学びを見るには評価をすればいいんでしょ。」と思われる方もいるかもしれない。評価とは、例えば客観テストを用いて点数をつけたり、成績表などで「できた・できていない」とある意味で値踏みをしたりする行為であると言える。このような行為では本当の意味で子どもの事実を知ることはできない。大切なのはアセスメントをすることである。アセスメントとは評価の様に値踏みを行うわけではない。子どもの確かな情報をもとに、教師自らの基準で子どもたちを評価していくような存在である。テストの点数などの子どもたちを図る眼鏡に左右されることなく、子どもの学びの事実から得た情報を自分なりに咀嚼していく。教師がアセスメントをすることもあれば、教師を取り巻く子ども・保護者・地域など幅広い範囲でアセスメントは行われる。そして教師自身もアセスメントをされることもある。その事実をもとにして、教師は授業改善につなげていくこともできる。もちろん、確かなアセスメントができればという条件がついているが、評価でのみ子どもを捉えるという小さな枠組みではなく、子どもを本当の意味でアセスメントしていくことが重要であると言える。
 ここで「子どもを正確にアセスメントしていくために、教師は何をしていくのか。」と疑問を抱く人もいるだろう。もちろん、「子どもの学びを正確に知りたい」というようなアセスメントへの意識は必要である。しかし、そのような熱意だけで成り立つほど簡単なものではない。あなたは研究授業をどこから観察するか。大抵の教師は教室の後ろから参観し、そして教師の指導行動に着目する。この時点で参観者が見ているのは「教師」であり「子ども」ではない。アセスメントにもつながるが子どもの事実を見たいのであれば、子どもの顔が見える位置に立ち「何をどのように見るのか」という視点が必要である。子どもの目から感じられる事実を正しく見る必要がある。観察で得た事実をもとに、教師は見立てを行う。学習者は何を考え、どんな手立てをするのがその子にとってベストなのか。様々なことにまで思考を巡らせ省察をしていく。実践者として、観察者としての立場は違えどその教師の行いはその子どもにとって意味があったのか。はたまた他の手だど、それぞれの視点から省察を繰り返し、そして授業改善につなげていく。深くは言及しないが「コルトハーヘンの九つの問い」を参考にするなど、授業のリフレクションを通して省察を深めていくことが重要である。

④改善されていく教師

 ただただ、観察・省察を終えることが授業改善とは言い難い。大切なのは「次」である。授業は日々改善されていくものであり、得たことを「それで終わり」にすべきではない。シングルループのような考え方のもと、その授業を「今日の一授業のパッケージ」として捉え、省察した内容を吟味し次の行動に移していくことももちろん重要である。日本の研究授業のほとんどはこのような流れであろう。これはその授業内における省察に留まる形である。しかし、それだけで本当の意味での授業改善につながるであろうか。もっと根本を見直す視点も必要ではないか。確かにその一つの、一時間の授業を省察する。その上で、「そもそもその教材選択・ねらい・単元構成」は適切だったのかというような、大きな枠組みを見つめ直すことも重要ではないか。学習指導要領に示される中での狭い省察ではなく、シングルループを経て大きな枠組みとして「そもそも論」を問いただすようなダブルループ的な視点も教師の成長には欠かせないものになるのではないだろうか。教師としての成長を願うのであれば、当たり前から脱却し、「そもそも」にある根本的な部分を問い直すような視野の広さが必要と言えるのかもしれない。
 今まで様々な教育制度、そして教師の成長に関する考え方を見てきた。日本だけに留まらず、他国の教育事情を知るということ。日本の教員養成を改めて見つめなおすこと。校内研修の在り方を考えること。子どもの学びの事実をアセスメントすること。観察と省察を繰り返してシングルループ・ダブルループの考えから授業改善を図ること。その他にもたくさんの「見方・考え方」が存在し、言い出せばキリがない。

⑤改めて考える成長する教師

 では改めて考えてみる。教師として成長する上で必要なことはなんだろうか。それは「教師の成長に必要な資質・能力とは何かを自分なりに考え、そして学んだことを自分で咀嚼し自分の中の理想の教師の完成に向け、学び続ける」ことではないだろうか。教師として必要なこと、授業改善に向けて必要なこと。そんな安い言葉で一つの答えを示すことなど到底不可能である。しかし敢えてこの問いに答えるのであれば「自分なりに、学んだ知識を咀嚼し、教師を終えるその時まで学び続ける」というような姿を保ち続けることが教師に必要な資質・能力なのではないか。そのためにはまずは学ぶこと。そして全てのことを鵜呑みにせず、自分なりに考え目の前の子どもの事実から学んでいくこと。このような教師自身の成長に対する見方や考え方こそ、今求められている教師の姿ではないのだろうか。






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