『今昔こばなし集』「ヒサコさん」

今となっては昔のはなしだが、ヒサコが亡くなったのは、建国記念の日だった。生きていれば102歳になっていたであろう祖母のヒサコは、何とも変わった人だったという。亡くなったのは、もう5年前になる。

さっきから呼び捨てにしているが、私が祖母であるヒサコのことを「おばあちゃん」だとか「ばあちゃん」だとか「ばーば」だとかで直接呼んだことはない。

ヒサコは私が物心ついたときから、所謂『おばあちゃん』だった。
父が40歳の時の子供である私、父はさらにヒサコが42歳の時の子供であった。
つまり単純計算、私が生まれたとき、ヒサコは82歳だったと導き出せる。

私が物心着いた頃には、どこからどう見ても『おばあちゃん』だった。

父方の親族で、ヒサコは特別な存在だった。

ヒサコは全ての頂点で、全ての元凶でもあった。
ヒサコの20歳離れた妹のツタコおばあちゃんは、ヒサコのことを何かと悪く言った。ただ、それは悪口と一口でいうのではなく、愛情の裏返しのように感じた。

ヒサコは7人きょうだいの長子だった。
大きな世界大戦を2つとも経験し、日本が弾けていた時も経験している。
ヒサコの夫は、料理人であった。私の父が10歳の時に亡くなったので、私は、会ったことも話したこともない。

ヒサコは夫との間に8人の子供を産んだ。
8人目、5男が私の父だ。
末っ子で、ヒサコに可愛がられて育った父は、話を聞く限り、ヒサコにそっくりの性格をしていた。

私のヒサコとの記憶は少ない。
ヒサコとは年に1回しか会わなかった。離れて暮らしていたし、正月に会いに行くには、ヒサコが住んでいる所は雪が多く、私たちの居住地から遠く離れていた。
会いに行くのは専ら夏休み、お盆の時だった。

親戚の中で1番年少だった私は、ヒサコとの思い出が少ないのはしょうがなかった。

「お前は、私よりマサに似てるね」

ヒサコとの会話で唯一と言っていい覚えている会話だった。
この時、私は、10歳で、ヒサコは90歳を超えていた。この頃は、ヒサコに会いに行っても、あまり会話をしなかった。だから、余計この時のことを覚えている。

父も母も5歳離れた姉もその場にはおらず、私とヒサコの2人だけだった。

「マサって誰?」

思ってみれば、ヒサコと会話をしたのは初めてだったかもしれない。

「私の夫」

「おじいちゃん?」

「そう。お前は、おじいちゃんに似てる」

よく分からなかったが、当時、母も父のことを『お父さん』と呼んでいたし、自分の配偶者のこと(特に、妻が夫のこと)を名前で呼ぶのが新鮮だった。

「お前は、マサに似てるから大丈夫。私みたいなのが集まりやすい。きっとたのしい人生が送れる」

「私みたいなの、って?」

「そのうち分かる」

「おじいちゃんは、どんな人だったの?」

ヒサコとの会話は何だかぎこちなかった。
ヒサコはここから数年でまずは耳が聞こえなくなり、身体が自由に動かなくなるが、口だけは達者だった。
なのに、この時は多くを語らなかった。

「マサは物静かで優しい人だった。芯のしっかりある包み込んでくれる人。私みたいな変わり者は、マサが暖かい毛布のように見えた。」

完全に惚気話である。

「マサはいい料理人だった。戦争さえなければ、料理で色々な人を幸せにしたはずだ。あの手は、武器を握るためのものじゃない。」

ヒサコの夫、マサは終戦後約20年、50何歳かでこの世を去っている。病気だったそうだ。それ以上のことは知らない。

「お前は、マサに似てるんだろうね。カナエは、私に似ている、あの子は苦労する」

カナエとは、私の5歳離れた姉だった。
姉の話を詳しくするつもりはないが、後に父にも引けを取らないくらい『ヒサコ似』の人物として親戚で話題になる人物である。
確かに、姉の人生は苦労の連続かもしれない。

私は、ヒサコの「マサに似ている」発言にどう返していいか分からず、この時も父と母が現れたことによって、会話は終わってしまった。

そして、ヒサコとはその後、何度か会っているが、会う度に耳が聞こえなくなっていき、そのうちケア施設へと入所してからは、まともな会話は出来なかった。

「ヒサコさんには、伝説があってね」

ヒサコの葬式の時、姉はそう言って、ヒサコのことを語った。
姉も私も母も、父以外は、ヒサコのことを『ヒサコさん』と呼ぶようになっていた。

「ヒサコさん、飛行機に果物ナイフ持ち込もうとしたらしいよ」

「何それ、どういうこと」

「果物ナイフがないとりんごが食べられないって」

ヒサコさんは、料理が苦手だった。
冷めたご飯が好きで、炊きたてのご飯を好まなかった。
卵焼きは卵が巻けなくて、若い頃からずっとスクランブルエッグ(この単語が日本に浸透する前からそう)だった。
とてもはいからな人だった。

そして、物凄く美人だった。

今でもヒサコの話になると、締めはこの一言につきた。

「ヒサコさんは、はいからな人だった」

普通、親は子供たちに見守られて息を引き取るのが幸せだとされている。

ヒサコには、8人の子供がいた。

夫には先立たれた。

そして、ヒサコの子供は、ヒサコが亡くなる頃には、8人目の子供である父以外は、もうすでにこの世にいなかった。

ヒサコを見守った子供は、最後に残された父だけだった。

親戚の中には、ヒサコを『子供の命を吸い取り生きる女』と呼ぶ人もいたが、その人もヒサコより前に亡くなっている。

今、仏壇にはケア施設で誕生日会を開いてもらった時の、笑顔溢れるヒサコの写真が飾られている。
その隣には、私が会ったことはないが、白黒写真で凛々しい顔をしているヒサコの夫(祖父)の写真がある。

「お前は、マサに似ている」

そのことばが、私とヒサコの思い出だ。

「ヒサコさん、私ね」

私は、仏壇に話しかける。

「私、料理人になるんだ」

私は、今日から料理人(といってもまだまだ見習いだが)になった。


ヒサコの言葉が本当なら、きっと天職のはずだから。

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