2021/12/18

大切な人のことを考えながら、別の大切な人の期待に応えるように、文章を書いた。すると、数人から反応があった。ぼくの書いたものが、また少しだけ、ほんの少しだけ世界に影響を与えた。

たとえばぼくが死んだら、そっと忘れるなんて許さない。ぼくはそういう、わがままな人だ。けれど、もっとわがままなことに、ぼくはぼくの死を過剰に悲しまないでほしいと思っている。たとえばぼくが死んだら、多分周りの人たちはぼくの文章を読み返すのだろう。そうして、こんなに素敵な文章を書く人だったのに、と言う。惜しい人を亡くした、と言う。生きていれば今頃は、と言う。時に、涙を流す。流してくれる。それを、やめてほしいと思う。

死はそう、分光じゃないかと思う。人格の分解じゃないかと思う。時に死が美しくも見えるのは、その分光の虹色を見ているのではないかと思う。あの人、根は優しい人でね、あの時こんな言葉を言ってくれてね、負けず嫌いでね、カッとなるとつい手を出す人でね、笑顔が素敵な人だったのよ、一日に煙草2箱も吸ってたのよ、あなたの成人式にはこっそり泣いてたんだから、色、赤とか、黄、色。その分解された色とりどりの人格が二度と統合されることはない。それが、死ぬということだと思う。
2021/5/4:死・光路差

だからどうか、ぼくの人格を分解しないでほしいと思う。とってもわがままなお願いだということは分かっている。けれど、たとえばぼくが死んだら、その死を決して美化しないでほしい。ぼくの恥ずかしい言動も、決して褒められたものではない行いも、早とちりで落ち着きのない性格も、かと思えば底なし沼のように歯止めの利かぬ怠惰な生活も、全て、ぼくであったと認めてほしい。そのことを、どうか無かったものとして扱わないでほしい。これは、とってもわがままなお願いだと思う。

髪を切った。ここ2ヶ月ほど、相当に追い込まれながら一分一秒も休まらない生活をしていたので、すっかり伸びきっていた分を切り落とした。数時間前までぼくであったものは、ぼくでない、ゴミになった。

罪の意識は、どこから来るのだろう。迷惑な人間だという意識が、やはりある。馬鹿馬鹿しい思い込みだと思いながら、しんじつ傷ついているようである。たとえば社交辞令かもしれない誘いに心から喜んでしまった時、ぼくはそれでも相手にその心からの喜びを伝えたい。ぼくの勘違いであっても、もしかしたら勇気を出して声をかけてくれたかもしれない可能性があるならば、その勇気ある声を決して見逃したくはない。それはやっぱり、迷惑だと思われてしまうのだろうか。不安で仕方ないようで、仕方なくなんかない、そう、いいえ、ぼくはやっぱりそういうことを気にしている。他人と関わりを持つことはとってもこわいことだ。

切られる寸前までぼくの一部であった髪が切り落とされたらもうぼくではないのなら、それはやはり人格の分解だろうか。だから、死だろうか。死だとして、今こうしてまだ生きて文章を書いているのなら、それは生まれ変わりだろうか。失恋をしたら髪を切るのは、つまり生まれ変わりたいからなのだろうか。

ウイスキーをコカ・コーラ ゼロで割ったコークハイが、最近のお供。今日も3杯飲んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?