「緩み」と「不安」
2回目の緊急事態宣言が終盤に来て感染者の下げ止まりが言われ、市民の緩みが政治やメディアから語られている。なので「もうひと踏ん張り頑張りましょう」とテレビから政治家やキャスターが語りかける。
私はこのコロナ禍で語られる「頑張る」という言葉がたまらなく嫌いだ。頑張れなかったことは「緩み」と言われる。もちろん緩みも大嫌いだ。
なぜこんなに政治とメディアから発信される「頑張り」と「緩み」という言葉が嫌いなのか。それは震災以降の福島で聞かれたある言葉と使われ方が似ているのではないかと気づいた。
その言葉は「不安」である。
福島県では恒常的な放射能の被害である低線量被曝に悩まされる日々が続いた。低線量被曝は確かに「ただちに健康に害のあるものではない」ものの長いスパンで見た時には被害の可能性のあるものであり、その危険性をどう評価するかは多くの人の間で振れ幅があった。第一原発から近い地域以外では直接な害はほとんどあるとされず「不安」の問題とされた。そして政治は「不安」にタッチしなかった。「不安」は個人の問題とされ、政治から切り離された。しかし、本来の政治の役割は人々の「不安」を受けて、それが少しでも軽減すべき何かをすることではないか。
昨今の政治家が「緩み」という言葉を口にする時、私は福島の「不安」を思い出す。福島の「不安」がそうだったように「緩み」は政治の怠慢を市民に転嫁する言葉ではないか。政治は市民の間に「緩み」が生じることを前提として、それに対して対処するのが政治ではないのか。「不安」も「緩み」も個人の感情の言葉であり、政治から個人へと責任転換する為の言葉である。
「緩み」に対応する責任があるのは市民ではなく政治である。
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