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『スタンド・バイ・ミー』は映画と原作でテーマが違うという話

 今日、結婚式に行ってきたのですが、新郎新婦ともに映画『スタンド・バイ・ミー』が大好きということで、ケーキが『スタンド・バイ・ミー』を模してつくられていたのですが、もし二人の好きな映画が『エイリアン』とか私の大好きな『ゾンビ』とかだったらどうなるのだろう?と一人でウキウキしておりました。

 子どもの頃の小さな冒険と友情を描いた名作『スタンド・バイ・ミー』ですが、実はこの映画の原作はストーリーがほぼ同じながらそのテーマはかなり違ったものになっています。ちなみに原作のタイトルはTHE BODY(死体)です。

 小説版のテーマは生きる場所の違いです。ある種の格差と言ってもいいかもしれません。地元に残りそこにある職業に就く人。高度な専門教育を受けるなどしてどこにでも住めるような人。子どもの頃は一緒に過ごす関係でも、成長するにつれそれぞれ別の世界へと別れていきます。
 映画最後の台詞「あの十二歳のときのような友達は出来ない」は確かに小説でも中ごろに出てきますが、これは自分と違う世界の友達はそれ以後はできなかったという意味合いで語られています。
 実は、映画と原作は後日談が違います。テディ(眼鏡)とバーン(太っちょ)はこの旅をきっかけにゴードン(主人公)とクリスから離れていくだけでなく、彼らは次第に不良へなっていき若くして事故で亡くなってしまうのです! これはかなりショックな内容で、主人公ゴードン側へと移行したクリスが亡くなるのは小説も一緒ですが、二人が亡くなるのはもっと前です。彼らのような人々の代表は車で遺体の所へ行った不良のリーダー、エースです。小説家になったゴードンは故郷でエースを見かけます。不良ながらハンサムだった彼は、太ってその面影を全くなくし工場で働いていたのでした。

 最近ではクリスのように住む世界の移行を果たした人が自身の半生からこういった住む世界の違いを考察する『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』という本が、トランプ政権の誕生の理由を説明するものとして大きな反響を呼びました。

 四人の小旅行は少年の日の美しい思い出などではなくて、運命が別れていく残酷なターニングポイントだったのではないかと思います。
 大人になった今ならゴードンやクリスの悲哀と苦悩、そして大人になることの残酷さが痛いほどわかる気がします。『スタンド・バイ・ミー』はそんな住む世界の違いを描いた残酷な社会の一面を描いた小説なのです。

 上に書いたように、小説の最後の言葉は「あの十二歳のときのような友達は出来ない」ではありません。小説の最後はこう結ばれています。

「川はまだ流れている。そして私も、そうだ」

 この言葉は非常に冷たい印象を受ける言葉です。時は無情に流れていく。そんな感じがします。でも私はあえてこの言葉を『スタンド・バイ・ミー』が好きな二人に贈りたいと思います。


 ちなみに、なぜ私がこんなに『スタンド・バイ・ミー』に思い入れがあるかというと、私が次の次に書く予定の文章『僕たちは本当に自己愛をこじらせているのか』の考察にこの小説版のテーマが大きく関係してくるからなのです。今年中にはまとめたい。。。

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