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【う】馬がいる町(五十音の私)

五十音順で、一日一音を頭文字にあててタイトルとし、内容に沿った自己紹介エッセイを書いていきます。

馬がいる町で育った。休みの日、父が運転する車に乗って少し遠くの市まで遊びに行くときには決まって窓の外を眺めた。大きな牧場がいくつもあり、茶色や白、大きいのから仔馬まで、何頭もの馬が現れては景色とともに後ろへ流れていく。私の地元はサラブレッドの名産地なのだ。

夏は緑の芝生の上を、冬は真っ白な雪の上を、ときにのびのびと駆け、ときに静かに歩いているその姿。

幼いころは乗馬体験やホーストレッキングもよくさせてもらった。目の前に馬の頭があり、ぱっか、ぱっか、とリズミカルに揺れる特別な視点。まっすぐのびる道を進み、木立の間に入っていく。まだ言葉ではなく、身体そのもので素直にいろいろなことを感じていた時分。

今でもうっすらと当時の景色を思い出せる。そうして少し心が安らぐ。同時に切なさも感じる。いま以上は思い出せない、しかし完全に消えてしまうこともない記憶の断片をこれからも持ち続けるということに。

***

馬の目がやさしいと気づいたのは大人になってからだ。子どもの頃はその全身をひとまとめに見て「馬」と認識していた。28歳のとき、関東生まれ育ちの恋人(現在の夫)を伴って地元へ帰った際に、せっかくなら北海道らしいものをと思って牧場へ連れて行った。

しなやかな身体の曲線、艶のある体毛、なにかの感情が宿っているような深い目。久しぶりに間近に見て、自分の方が感動してしまった。

父も昔から馬が好きで、実家の飲食店には馬の絵画やカレンダーがいくつか飾られていた。父は馬のどんなところが好きなのだろう。訊ねたことはなかった。対象は同じでも、それを好きな理由やポイント、経緯は人それぞれだ。

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馬と言えば忘れられないエピソードがある。私がまだ雑誌の編集記者をしていたとき、淡路島へ行った。丘の上にある県立公園がスケジュール最後の取材場所だった。地図アプリによると、最寄りのバス停から公園までは徒歩で約30分。そもそも車で行く場所らしい。公共交通機関はない。

しかし節約至上主義を掲げる会社にあって、当時はタクシー1台乗ることも気楽にはできなかった。経理部長は声がでかい男性で、必要だから申請した経費でもいちいち呼び出され、用途を細かく詰められることがままあった。

徒歩30分なら十分に妥当だろうが、会社に戻ったらまたあの声量を浴びるかもしれないと考えるとげんなりした。かと言って自腹を切るのも嫌だ。

まあいいか。時間はたっぷりあるし。そう思い、マップが示す点線に従って丘の上を目指して歩き始めた。しばらく進んで察したが、そこは完全な山道だった。次第に自然が深くなり、不安が増していく。神隠しにあったらどうしよう。

冗談ではなく、8割方は起こりうると信じていた。だって「神隠し」という言葉が存在するくらいだし。伝承だって多い。人間ひとりくらい隠すなんて本当にたやすいことなのではないか—―。

いちど考えると歯止めがきかなくなり、ひたひたと恐怖が満ちてくる。本気でやばいかもしれない、消えるかもしれない。しかし叫んだり走ったりしたらそれこそ終わってしまうような気がした。もうどうにもできない、と動悸がピークに達した瞬間、後ろからやってくる音があった。

ぱっか、ぱっか。

振り向くと、人を乗せた馬がそこにいた。3頭並んでいた。虚を突かれ、呆気にとられる。一方で(助かった!)と分かり、心底から安心し座り込みそうになった。

そんな私を意にも介さず、馬たちは一定のリズムで横を通り過ぎていく。引き離されないように軽く駆けながら、揺れるしっぽを追いかけるうち、私も無事に公園についたのだった。

スマホで検索してみると、なんとその道はホーストレッキングのコースだった。淡路島に馬がいるイメージはなかったので新鮮だった。

ここも馬がいる町だったのか。先に知っておけば…! 経費だ自腹だ云々の前に、迷わず利用していただろう。そして仮に経費申請し詰められたとしても、これならむしろあっけらかんと必要性を説けたかもしれない。

ピンチの瞬間に現れた馬は、まさに救世主に見えたのだった。馬の良さを再発見してから2年後、30歳のときのことだ。

ちなみに、公園からの帰りもタクシーには乗らなかったが、山道ではなく普通の国道沿いに歩いていけば元の場所に戻れることに気づいた(つまり行きもこっちから登れば良かったのだ)。地図アプリはなぜか不便な裏道の方を案内しがちだということも学んだ。

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