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東洋医学・西洋医学・統合医療②

指圧における氣と補瀉



氣は川のように流れる

氣とはなにか?

氣というものは、東洋医学の根幹をなすものであるので、氣とはなにか?という論考は、今まで多くの大家がされてきたことであるし、教科書にも多く記述のあることなので、ここではそもそも…の話はしません。

正解があるわけではない…というよりは、それぞれ人が感じること、思うことはすべて正解であるという類のものであると思います。

ただ極私的にいうと、臨床上会う患者さんは、氣というものの重大さに気づきながらも、それを軽く扱おうとする方が多いという印象があります。

初回の施療を終え、一週間後なりに2回目にお見えになって、まず前回の施療後いかがでしたか?とお伺いすると、よく言われることに、

「気のせいかもしれないんですけど、すごく楽になって痛みがなくなって、よく眠れるようになりました」
というようなお言葉があります。

その場合の "気のせい” は、“私の勘違いかもしれないけど” というニュアンスです。

そういう時に私は、「ああ、それは氣のせいですね…」とお答えするので、ポカンとされることがあります。

初診の時に、「こんなに痛くて、こんなに辛くて、大きい病院にいって、MRIやあらゆる検査を受けたのに、なにも数値や画像には異常がなくて、お医者さんは気のせいと仰るんです!」と憤慨して鍼灸院にいらっしゃる方もよくいらっしゃいます。

その場合の患者さんにあるのは、自分の気持ちをわかってもらえなくて軽くあしらわれたという悲しみや怒りなのですが、まぁ西洋医学のお医者さんの仰る「気のせい」は、患者さんが受け取られた通り、「目に見える異常はありませんよ。あとは目に見えない領域のことでしょうね」という意味だと思うので、そういう意味ではかみ合っているわけです。

日本語には、"氣”がつく言葉が、本当に多いです。
「気のせい」「気になる」「気が合う」
「やる気」「元気」「根気」「陽気」「陰気」

試験前に勉強をしていて、やる気があるときとないときでは、問題集の進み具合も、頭の中への残留率も全く違うのは、誰でも経験のあることだと思います。

だから、世の中の親はやる気スイッチを押してくれる予備校があるなら、そこに我が子を入れたらなんとかなるのではないかと高い授業料もはらうわけです。

また、クラスの中には30人の同じ年頃の男女がいるのに、Aさんのことはすごく気になって、話してみるとすごく気が合う。なのに、Bさんのことはなんの接点もなく、気にもならず、気が合うかどうかもわからない。そのまま記憶の彼方に忘れ去られてしまう。なんてことも誰でもわかりやすい事例だと思います。

気になる人とはよく視線があったり、よく一緒になったりします。
お互いの気がシンクロするのでしょう。

「気が合う」仲間となにかをすると、「気が合わない」人となにかをするより、ずっと楽で楽しく、早く、勢いがあるままにことが運ぶでしょう。


気の合う仲間

氣を補瀉をする

気の合う仲間という時の気と、氣を補瀉するときの氣は同じものです。

氣と気という漢字の違いは、旧字体と新字体というよりは、
気‥〆切の〆にみるように、エネルギーを閉じ込めるような字体であり、本来のエネルギーを表していないため、
氣‥米を炊く時の湯気や、八方に広がるという本来の字義通りの字を使っています。

鍼灸でも指圧でも、東洋医学的な姿勢で患者さんと対峙しようと思うと、その東洋医学的な健康観に沿って、「中庸」に目盛りを合わせようとします。

多すぎるものをうつし(瀉)、少ないものを補います(補)。

なにをかというと、氣、血、水という三要素です。

血と水は、氣についてくるものと考えられているので、まずは足りない氣を補い、滞っている氣を瀉すことに焦点をあわせるわけです。

同じく東洋医学のものの見方として、五臓や経絡、陰陽、寒熱や、虚実というものがあります。

そこまで話を拡げるとまた話が分かりにくくなるので、氣の働きだけに目を向けると、弱っている臓や経絡がどこかを診立て、証を立て、そこに鍼なり手指なりで、氣を補ったり、瀉したりすることが、東洋医学的な治療なわけです。

鍼灸にとっては、四診といわれる診断方法で患者さんの概略をつかみ、証を立て、治療方針を決めて選穴して刺鍼するということが、ひとつひとつのステップになっていることが多いですが、指圧においては、診断即治療と言われる通り、話しながら、触れながら、押圧しながら…ということが全てひとつながりです。

これまた極私的な話になりますが、四診のうちの切診には脈診と腹診があり、私は施術の前後に必ず脈とお腹をみます。

関西伝統指圧で、脈診と腹診をするように教わったことはなく、基本的に伏臥位から始まり、伏臥位に終わるので、仰臥位で始まり仰臥位で終わる私はまずここから、大きく道から外れています。

自分なりに分析すると、経絡治療的な観点から私は氣をとらえようとしており、乱暴な言い方で言ってしまえば、術前の脈が弱々しく沈んでいて気虚を感じさせるものであったり、腹証が力のないものであれば、補氣を意識した施術になり、術後にもう一度触れてみて、脈が生き生きとうち、おなかに力が満ちて温かくなれば、改善したと診断します。

指圧において、診断即治療ということはよくいわれることであるし、他の指圧師さんから脈診や腹診を受けたことがあまりないので、治療の前に診断するのは、もしかしたら邪道なのかもしれません。

ではどうして私が、脈診や腹診を続けているのかというと、たとえば、氣を補おうとしたとき、拇指圧や、掌圧をしているその皮膚の接点からリアルタイムで補氣した感じがすることはもちろんあって、それをもってよしとするのでもいいのですが、トータルでバランスを見るときに、やはり脈と腹というのはとても便利で、自分の中でそれなりの座標軸があるので、過去のその患者さんのカルテと照合するように、自分の中の感覚と照合している感じになります。

どこが悪いか、また痛むのはこの辺かと手を当ててみることが「切診」であると同時に、本来の手当てなのであって、指圧の根本はこの手当にあるといえるでしょう。手当というのは、生物として困ったときに助け合う本能的な行為であり、不足したものを補ってやる社会的な行為でもあります。

指圧 増永静人

脈やおなかを診るときに、わたしは客観的に観察的に診ているわけではありません。もちろん、術前の今の様子を把握したいという意識はありますが、
ベッドに横たわって、私にお身体を任せようとしてくださっているその時に、まず、呼吸を整えて、手首に触れる。

ちょっと早いですね・・とか、脈に触れにくいですがしんどい?とか、会話をしながら、患者さんの周波数に自分の周波数をチューニングして合わせていく感じといってもいいかもしれません。

脈を診て、おなかに触れて、冷えてますね…とか、おへその横で脈が打ってますね・・などと、感じたままをお伝えしていくと、患者さんもだんだんご自分のお身体の声に耳をすますようになられます。

ものすごくおなかが脈打っていても、冷えていても、気づいていらっしゃらないことがほとんどですし、「手が温かくて、涙が出そう…」と涙ぐまれるようなこともあります。

私が関節リウマチであちこちの病院を受診した時に、ほとんどの医師は、私の身体に触れることはありませんでした。
PCのディスプレイに映し出される、私のレントゲンや、血液検査の数値を一生懸命診ていらしていて、視線が合わないこともよくありました。

とにかく、異常を早期に発見して、早期に投薬するか、手術するかが西洋医学の本懐ですから、当然のことです。

保険診療というものは、目に見えるものしか扱いません。その領域を厳格に守る真面目なお医者さんほど、氣なんて怪しいものは排除した、科学的な態度で患者に対峙し、それが西洋医学的臨床というものだと私は理解しています。

それを、非人間的であると非難することは的外れです。西洋医学はそういう科学的な態度をとることで発展してきた医学です。

随分前に、STAP細胞が話題になったことがあります。
「STAP細胞はあります」と、女性研究者が仰った。
間違いなく、彼女がズルをしたわけでも、間違えたのでもなく、
彼女の前に「STAP細胞」はあったのだと思います。

だけど、科学的な手法ではそれを何度でも再現できないといけません。
誰が、どのような態度で実験しようと、必ずそれは出現しなければならない。
それが、西洋医学で目指すものだと思います。

だけど東洋医学では、それは非常に曖昧な個人的なものになります。
特に、氣なんてものは計測不可能なものなので、氣が少ない、多いなんてことは主観でしかなく、A指圧師が氣虚だと思うものがB指圧師が氣滞だと診立てることはありえます。

A指圧師が患者さんに触れた時は、小腸経に滞りがあると思い、それが不調の源になっていると思うけれど、B指圧師は胆経のつまりを重視して治療を進めるなんてことも(きっと)ままあります。

経絡治療学会で、肝虚証の先生のもとには肝虚の患者さんが集まるんだよ・・・なんてことを耳にしたことがありますが、そんなことも西洋医学ではナンセンスな話でしょう。

目にみえないものを、どのように扱うか。
目にみえない氣をどのように補するのか?瀉するのか?
次はもう少しこのことを、別の角度からみたいと思います。

最後まで読んでくださって有難うございます。読んでくださる方がいらっしゃる方がいることが大変励みになります。また時々読みに来ていただけて、なにかのお役に立てることを見つけて頂けたら、これ以上の喜びはありません。