演出家思考と劇作家思考

※物書きの筋力が落ちてきた気がするのでリハビリでnoteを書く

妻とある企画を考えている。そのうち世に出るかもしれないし、もしかしたら雲散霧消して日の目を見ない可能性もあるが、それはそれとして。

その方向性において、ちょっとだけ対立が生まれた。要約すると、妻から見て私には「これを実現したい!」という信念や主体性がないように見えるらしい。

結論から言えば、その指摘はあながち間違ってない。が、形はどうあれパートナーに「主体性のないやつ」というレッテルを貼られて黙っているのも癪なので、自分なりに言葉を尽くして説明したらある程度理解してもらえた。

私には「伝えたいこと」などないのだ。何を語るかよりも、どう語るかに興味がある。一方、妻は「伝えたいこと」ありきでものを作る。創作に対する基本スタンスが大きく異なるのだ。

一日経って、より腑に落ちる表現が思い浮かんだ。私は演劇をやる際に最も比重があるのが「演出」であるのに対し、妻は「劇作」に重心がある。アイデンティティとしての職種が演出家と劇作家という異なるポジションなのだ。

そりゃあ、はじめの一歩が噛み合わないわけだ。
逆に言えば、互いの長所と短所が異なるので補い合えるとも言えるのだろう。

劇作家思考と演出家思考だからだね、と話すと昨日の対立も含め、「そりゃああなるわ」とお互いに納得できた。

さて、このコンビでの共同創作はうまくいくのか。

※余談※
このnoteを書いている最中、「なにしてるの〜?」と妻が覗いてきた。それは全然構わない。が、会話を2〜3ラリーして私が書く作業に戻った後も、妻はPCの画面を見ている。カーン!とゴングが鳴った。私は書いている最中の文章を見られるのがこの上なく嫌だなのだ。文章を書いたり消したりしている様子を見られるのは、普段会話の中で不採用にしている、相手に言わない方がいいなと切り捨てている言葉すら見られるのと同義だからだ。私がイマイチだと思った表現を見られるのが恥ずかしい。と、熱弁すると妻は「なるほど!わかった!」と撤退してくれた。ちなみに彼女は書いている最中の文章を見られるのに抵抗はさほどないらしい。不思議だ。

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