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芸術と堕落

 現代俳句に比べて、現代短歌は堕落していて駄目だというイメージを持っていたのだけれど、なかなかどうして、今日、NHK短歌をたまたま観て、少し考えを改めることとなった。

 テーマは、片思い。

 ハイライトは「彼女が」と相手が口にした一言のせいで、目の前のパフェが急速に色褪せていった、という趣旨の歌だった。
 画面のなかで、女性4人の、盛り上がること。

 短歌の本質は、「わかる〜…!!」という、感覚なのだろう。

 投稿者の名前が男性っぽかったのも、面白かった。あの歌は、実体験だったのだろうか?
 異性愛者なら、「彼氏が」で作句してから推敲したことになり、その配慮が奥ゆかしい。同性愛の歌だと受け取ることも可能で、そのシチュエーションも、それはそれで大変に切ない。あはれなり。いとエモし。
 実体験でなく、創作だったとしたら、それはそれで見事である。パフェ、という言葉に宿る民族的な共通体験の記憶を、実に巧みに引き出している。

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 最近、芭蕉の時代について知れば知るほど、俳句って、なんなんだ?という思いを強めている。

 そもそも俳諧とは、和歌のマンネリ、和歌の堕落への、異議申し立ての衝動だった。だから、俳言、を、意図して入れていた。そうしないと、結晶化しない詩情があった。同志とともに、芭蕉は、歌仙を巻いた。
 その精神は、まさにオルタナティブである。

 時は下り、俳諧が、発句だけでよくなって、俳句になった。
 詩情の交歓としての場の芸術性は後退し、言葉をひたすら刈り込む盆栽みたいな詩になった。

 いや、もちろん、盆栽もまた見事な芸術である。もちろん、それはそれで、良い。良いがしかし、それは詩に対して、死か、堕落かの理不尽な二者択一をつきつける。

 俳句のオルタナティブ精神を、ひたすらに堕落しないように、ゆくべき先まで突き詰めたのが、尾崎放哉である。

墓のうらに廻る

 技術的にも、論理的にも、俳諧が俳句になった瞬間に、この一句に収束する以外に選択肢がなかったのである。
 しかしそれは究極の孤独である。詩は死にたいのではなく、生きたいから作るのである。

 詩が詩として生きるためには、ふたつしか選択肢がないのかもしれない。古典に帰るか、ライブか。

 長嶋有がオチョケと本筋のギリギリを遊び、イベントに力を入れていたのと、小澤實が旅をするのは、真逆にみえて、詩を詩たらしめるための必死の格闘、という意味では、変わらないのかもしれない。

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 芸術は常に堕落と隣り合わせである。しかしたとえ堕落があったからといって、形式それ自体に罪はなく、詩情の不在が、罪なのだろう。
 芸術とは、形式を成立させることだけがテーマであり、した瞬間に、堕落が始まる。堕落と戦い続けること、それだけが、芸術の芸術たる存在理由であり、おそらくそれは、古代から現代に至るまで変わらない。

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